侯爵令嬢、認める
イザクの背後で、蔦の絡まった隠し戸が音もなく閉まっていくのが見える。どうやら執務室から隠し通路を使って追いかけてきたらしい。
「陛下……!? どうして……」
「嫌な予感がしたから念のため様子を見に……予感は当たったみたいだな」
驚くシエナをたしなめるようにイザクが言う。シエナはばつが悪そうに舌を出した。イザクが現れたことにシエナが少しほっとしていると、断末魔のような悲鳴がコーデリアから上がった。
「化け物! けがらわしい手でわらわに触るでない!」
長い爪でひっかきながらイザクの手を振り払い、コーデリアは威嚇する。コーデリアが蜘蛛の糸を払うように腕を振り乱したので、シエナはその腕を避けると椅子からよろけた。すかさずイザクがシエナの腰を支えて立たせる。
無礼な発言をしたのはシエナの方なのに、コーデリアの目にはもうイザクしか映っていないようだった。
「目ざわりじゃ。その醜い面をわらわに見せるではない」
見たら目が腐るとでも思っているようだ。慄いたようにコーデリアは吐き捨てる。イザクがギュッと眉根を寄せた。シエナは知っている、イザクのこの仕草は、痛みに耐える時にする仕草の一つだと。
(現国王に向かってなんてことを……。いや、今はそんなこと問題じゃないわ。何て言った? この人。実の息子に面と向かって醜いだなんて……!)
「ここは俺の庭園だ、気に食わないならあんたが此処を去れ。それから、こいつに手を出すな」
イザクはシエナの肩を引き寄せると、冷え切った声でにべもなく言った。親子の会話とは思えないほど、険悪な空気が雨上がりの一帯に広がる。
「――――……泣くばかりだった小童が、えらそうな口を聞く……。そこの娘にたぶらかされ、甘言でも吐いてもらったか? そこの娘」
コーデリアの刃のように鋭い視線がシエナへ飛び、呼びかけられる。イザクは庇うようにシエナを背に隠したが、シエナはコーデリアから目をそらさなかった。
「今に後悔するぞ。化け物の傍に侍ることをな」
「……後悔はしません。私は今日、望んで陛下の元へ参りましたから。これからも、関わっていきたいと思っています」
それが妃としての形かどうかは、まだ分からないけれど。
「……この化け物の権力が目的か?」
「それが目的なら、早々に側妃として収まっています」
どうせ王太后は新聞や自身の召使たちに調べさせてシエナのことを知っているのだろう。ならば、シエナが一度イザクの求婚を断ったことを知っているはずだ。シエナの思ったとおりコーデリアはそのことを知っていたようで、鼻白んだ様子で扇を広げた。
「ならば何故このような者の傍にいる」
「……少なくとも、私は陛下のことを好ましく思っておりますので。人として尊敬もしています」
「尊敬、のう……」
パチンッと周囲に響き渡るような音を立てて、コーデリアが扇を閉じる。
「……興ざめじゃ。侯爵令嬢、そなた、二度とこの化け物に近寄りたくないと思うほどの目に遭わなければ考えを改めぬようじゃな」
「……?」
「……せいぜい気をつけるがよい。長生きしたいならば、な」
含みのある発言をしてから、コーデリアは濡れた石畳を引き返しシエナの視界から姿を消した。打ち上げられた魚のように息苦しい気分だったシエナは、深い息をついてベンチに座りこむ。
(……超怖かった……! 威圧感半端なかった……!)
今更大それたことを言ってしまったと青くなるが、憤然とした様子のイザクが目に入り、シエナはまたサーっと血の気が引いた。やばい、怒られる。
「何してる!」
案の定、イザクはドスのきいた声でシエナを一喝した。
「……どれだけ危険な目に遭わされるか分からないんだぞ!」
「あーうー聞こえませんー」
シエナがさっと耳を塞ぐと、イザクはこめかみを引きつらせた。
「誰よりも長生きしたいんだろうが。どうしてお前はそう無茶をする……!」
「もちろん、誰よりも長生きしたいですよ。でも、陛下のことを化け物と言うあの人の発言に否定しなかったら、一生後悔して生きて行く羽目になるんだと思ったら、言わずにはいられなかったんです。それに」
シエナはうろたえた様子のイザクを真っ直ぐな視線で貫いた。
「私に危険が迫ったら、陛下が守って下さるんでしょう? この前みたいに」
「お前は……っ」
イザクは言葉を探すように口ごもってから、降参と言わんばかりに苦笑した。
「本当に上等な女だな……」
「とんでもない。私は陛下のために全てを捧げることは出来ません。だから、出来る範囲のことをしようと思っただけです」
「何故だ……? どうしてなんだ。闘技場でもお前は俺を救おうとしてくれた……」
理解できないというイザクに、シエナはちょっと考えてから言った。
「それは……あなたが死んでしまうのは悲しいと思ったし、それに、私多分、嫌だったんです。この世にも救いがないなんて、思いたくなかった」
「……『この世にも』……?」
「あ――……そうですねぇ……えっと」
シエナは口元に手を当て、慎重に言葉を選びながら言った。
イザクになら――言ってもいいだろうか。自分の過去をさらけ出してくれた彼になら、シエナも自らの『前世』について語ってもいいかもしれないと思った。
シエナが話しあぐねている気配を察したのか、イザクはシエナの隣に腰掛け聞く体勢に入る。シエナは膝の上でドレスを握りしめると、一息に言った。
「信じてくれなくても、構わないんですけど……というか多分信じられないと思うので聞き流してほしいんですけど、私、前世の記憶があるんです」
隣でイザクが目を丸めたことに気付いたが、シエナはそのまま続けた。
「前世の私は、理不尽に殺されてその生を終えました。救いは来なかった。だから、闘技場で命の危険にさらされている陛下を見て、前世の自分と重ね合わせたのかもしれません。転生したこの世界でも救いがないなんて思いたくなかったから、だから自分から陛下を助けにいったんです」
「結局陛下を助けたのはニフたちですけどね」とシエナは苦笑いしながら付け足す。
「そして今度は、この世であなたが私を暴漢から救ってくれたから。誰も来ないと思ってた。救いはないと思ってた。でも、無常だけがすべてじゃないって、陛下が教えてくれたから。だから……」
シエナはイザクの手をとって微笑んだ。
「だから私も、あなたに報いたいと思うんです」
「シエナ……」
「この気持ちが恋なのかはまだ分かりません、でも……私にとって陛下は特別です」
「…………」
イザクはうっすらと口を開きかけてから、結局何も言わずに噤んだ。それから、シエナの肩口に頭を預け、顔を隠す。シエナが眉を吊り上げ呼びかけると、くぐもった声が帰ってきた。
「……殺し文句を放っておいて、恋かは分からないと言う。お前は酷い女だな」
「嫌いになりました?」
「いや……。意地でも守って、振り向かせたくなった」
ニヤリと笑うイザクに、シエナは彼がコーデリアのことを引きずってなさそうだと安心する。
(でもまあ、私が陛下のことを好きなのは、認めざるを得ないかもしれないわね……)
でなければ、王太后相手に強く出たりするものか。自分で自覚している以上に、シエナにとってイザクは大きな存在になりつつあることを、シエナはとうとう認めた。




