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侯爵令嬢、迫られる

 イザクに掴まれた手首が軋む。前を歩くイザクを見つめるが、彼は視線を寄こさない。聖火祭ではシエナの歩みにペースを合わせてくれる場面もあったのにと思うと、イザクが怒っているのが如実に伝わってきた。


「陛下、痛いです……あの……」


 シエナが話しかけても、イザクは返事をしてくれない。それどころかますますシエナを掴む腕の力が増した。


 イザクはシエナを半ば引きずるようにして人気のない通路を抜け、金の細工が施された樫の扉の前に立つ。イザクの執務室だ。イザクは乱暴に扉を開けシエナを中へ押しこむと、後ろ手に施錠し、シエナをマホガニーの執務机へ押し倒した。


「いった……!」


 ドンッという音とともにシエナの背中へ鈍痛が走る。シエナが顔をしかめているうちに、イザクは机に手をつき、シエナを腕の檻で拘束した。


「陛下、あの……っ」


「フェリエドと何を話していた?」


「……っ」


「答えろよ」


 初めて会った時より冷たいイザクの声に、シエナの喉がひくりと攣った。鋭く細められた瞳は獰猛な獣のようだ。イザクの怒気にあてられ、シエナは肌がピリピリ痛む気がした。


「質問に答えろ。どうして此処にいる。フェリエドとは俺に言えない話でもしていたのか? なぁ……」


 口元には笑みを携えているのに、イザクの瞳は凍っている。イザクに会いたいと思って馬車を走らせてきたのに、シエナはこの空間から逃げたくてたまらなかった。


(陛下、すごく怒ってる……。怒ってるのは私のはずだったのに……!)


「シエナ」


 有無を言わさぬ声で促され、シエナはおずおずと口を開いた。


「……えっと、私陛下にお話があって……チャラ……ニフたちに無理を言って中に通してもらったんですけど、あの、陛下が執務室にいると聞き向かっている途中で、偶然会いました……そこで、たわいもない話を……」


「偶然?」


 イザクが鼻で笑う。


「それにしては随分と打ち解けていたようだがな」


「それは……」


 先ほどの険悪な兄弟仲を見せられてから言うのは躊躇われたが、ここで黙っていてもいずれバレるだろうと思い、シエナは正直に白状した。


「以前聖火祭で声をかけられて、少しの間一緒に露店を見て回っていましたから……」


「――――お前があいつと、一緒に……?」


「は、はい。闘技場での決闘も、私が陛下の試合に乱入するまでは客席で一緒に見ていました。仮面を付けていたのでまさか陛下の弟君とは存じませんでしたが……」


「闘技場でだと?」


 イザクの眉間に刻まれたしわが深くなる。それから得心の言ったような声で言った。


「――――なるほどな……闘技場で俺に刺客を送りこんだのはフェリエドということか。道理で足がつかないわけだ」


「な……っ!?」


 シエナは驚いて心臓が止まりそうになった。


(エドが犯人!? まさか!?)


「滅多なことをおっしゃらないで下さい。陛下の弟君ですよ? そんなことする訳が――」


「俺が死ねば王の座はフェリエドに転がりこんでくる……喜んでするだろうな。あいつには俺の命を狙う動機が十分にある」


「そんな……」


 シエナは言葉を失った。血を分けた実の弟が兄を謀ろうとするなんて、信じたくはない。


 しかし、先ほど明らかに憎み合っている様子を見せられた身としては、シエナはフェリエドがシロとも言い切れないのだった。


 今思えば、フェリエドは聖火祭で含みのある発言をしていた気もする。


 そしてシエナは、暗殺を企てたのが弟だろうと当然のように語るイザクに悲しくなった。憎まれているのに平然としているなんて……。


(エドも……聖火祭で会った時は快活な紳士だったのに……)


 先ほどの険悪な様子を見せられても、まだ初対面の時の気さくな彼を信じたい気持ちもシエナにはあった。


「エドが陛下を襲うように仕向けたなんて……まさか……。いた……っ!?」


 肩を掴むイザクの力が増し、シエナは呻いた。あまりに強い力だったので痣になると思いながらイザクを見上げると、彼は怖い顔でシエナを見下ろしていた。自分よりずっと大きなイザクにのしかかられて、怯えも感じる。が、シエナはそれ以上に、イザクの暗い瞳に切なさが滲んでいるのが気になった。


(……なんでそんな、苦しそうな瞳をしてるの……さっきまで機嫌悪かっただけなのに……)


 自分はもしかしたら地雷を踏んでしまったのかもしれないと、シエナは今更ながら気付いた。


「へい……」


「……か?」


「え……?」


 静まり返った部屋でも聞きとれないほどイザクの声が細かったため、シエナは聞き返す。イザクの瞳は苦しげに揺れていた。


「……お前も、俺から離れていくのか?」


「……なん、の……何のことです? 今はエドが刺客を送りこんだかどうかの話を」


「あいつのことを親しげに呼ぶな……っ」


 血を吐き出すように苦しげな声で言われ、シエナは口を噤んだ。


「お前もあの人と同じように……母と同じように、フェリエドを選ぶのか……?」


「……っ!」


 ああ、しまった――……シエナはほぞを噛んだ。シエナはイザクの心の柔らかい部分を、知らぬ間に土足で踏み荒らしてしまったのだ。


「……陛下、待って、話を……」


「いかせない」


 落とすように呟いたイザクの瞳は暗く淀んでいた。心を閉ざしたようなイザクに、シエナは不安を煽られる。


「へいか……?」


「お前があいつを選ぶのだけは許さない。離さない。お前は……」


「…………」


「お前は俺が先に見つけたんだ。あいつより先に。お前だけは俺が――」


 子供がテディベアを抱きしめる時のように、背中に腕を回され、痛いくらいに抱きしめられる。首元にイザクの顔が埋まり、頬に彼の髪が当たった。


「……お前だけが、俺の心を揺らすのに……」


「……っ!」


 切実な声で言われ、シエナの心臓がキュッと苦しくなった。


「お前は俺のだ。――――離れていくくらいなら、いっそ――……」


 イザクの節くれだった手が、シエナの服の胸元へかかる。シエナの心拍数が跳ねあがった。羞恥にじゃない。恐怖、は多少あると思う。イザクから発せられる怒気が室内の酸素を薄めているから。


「陛下、ねえ、私、第二王子を選んだわけじゃないですよ? ねえ、聞いて……」


(このままじゃ、私……)


 困惑している間に、鎖骨あたりに刺されたようなチリッとした痛みが走る。イザクに吸いつかれたのだ。


(どうしよう……)


 シエナは試しにイザクの肩を押してみるが、びくともしない。打開策が見当たらず、焦りだけが募った。その間にもイザクの手は進んでいく。


 いつものイザクならこんなことはしないのに。シエナの話に耳を貸さずに、独占欲をむき出しにしてキスマークをつけてくるような人じゃないのに。


 初めて会った時みたいだとシエナは思った。今のイザクのシエナへの扱いは、シエナを他の欲深い令嬢と同列に扱っていた、あの時と同じようだ。


 イザクはシエナが唯一イザクの心を揺らすと言うが、それはシエナにとっても同じだというのに。イザクだけがシエナのトラウマを優しく溶かしてくれるというのに、そんな存在が耳を貸してくれないのは悲しい。


(不用意な発言で陛下を傷つけてしまったから……? でも、恐怖より羞恥より、身勝手な陛下の行動が悲しい、なんて……勝手かしら……)


 それに、イザクの真意が分からないのだ。突然音信不通になってシエナを避けたと思えば、尋ねてきたシエナにフェリエドとの関係を詰問し、今はフェリエドに嫉妬している……?


「……っ」


 当惑している間にまた一つ、イザクによって胸元に紅い華を咲かせられる。あえて見える位置につけるのが、彼の独占欲をまざまざと見せつけられているようだった。


(ああもう――……)


「陛下……不安にさせて申し訳ありません……。それから……」


シエナは一度深呼吸してから、イザクの背へそっと腕を回し、宥めるように背中を撫でた。そして優しい目を向け――……


「話を聞けって言ってんでしょうがーーーー!!」


 渾身の一喝をイザクへぶつけた。ついでに頭突きも。


 自分の怒声にぐわんぐわんと耳鳴りがする。シエナの怒号で、室内の調度品がカタカタと音を立てた。額は割れんばかりに痛み、目の前を星が明滅している。


「……な……っ」


 さすがのイザクもくらくらした様子で額を押さえた。シエナは半眼でイザクを睨むと、すかさず身を起こして畳みかける。


「陛下!!」


「……あ?」


「ちょっと、ねえ、落ち着いてよ! じゃないと今度はヘッドロックかけるわよ!」


「ヘッドロック……? 何語だそれは」


(ああもう! この世界はプロレス用語が通じないのね……!!)


 シエナは地団駄を踏みたいのを我慢しながら、イザクに向き直った。


「エド……第二王子とは何でもないって言ってるでしょ! 話を聞いてよ! それに、陛下ったらいきなり理由も語らず音信不通になって……こっちはその理由が聞きたくて王宮までやってきたのに! 陛下ったら自分の質問ばっかり……もうもうもうー!!」


 怒りを爆発させ髪を掻きむしるシエナに、イザクは瞠目する。今度はシエナの方が頭に血が上っている状態だった。怒りで目の前が真っ赤になっていたイザクは、シエナの髪に自分が贈った髪留めが留まっていることにやっと気付き、シエナがフェリエドに心変わりしたわけではないと思い直した。


「陛下!」


 キッと下からシエナに睨まれて、思わずイザクは姿勢を正した。


「……何だ」


「陛下、本当に体調は悪くないのですか」


「……ああ、どこも悪くない」


「そうですか……」


 一応イザクの頭のてっぺんから足のつま先までシエナは隈なく視線を滑らせる。一見した感じでは、たしかにイザクは健康そうだ。


(……連絡を寄こさないことを怒って訪ねたのに、陛下が体調を崩してなくて安心するなんて、私ってお人よし……! そして今はそんな自分にも腹が立つ……!)


「では何故私を避けたのか、それを説明してください! 避けていないなんて言わせないですよ!」


「それは……」


 シエナに圧倒され、イザクはぐっと言葉をつまらせる。いつもの割と常識人なイザクに戻った。彼は自分以上に怒っている人物を見ると、平静を取り戻すのだろう。イザクは整った顔を難しそうにしかめてから、気まずそうにシエナから視線をそらして言った。


「……悪いんだがシエナ……その、お前が怒る気持ちはもっともなんだが、俺が答える前に、服を整えてくれないか……」


「え……?」


 シエナは自分の胸元に視線を落とす。艶やかな朱の華が点々と散った胸元は、谷間がはっきりと分かるほどドレスがずらされていた。


「ああっ!! 陛下のバカーーーーっっ!!」


 シエナの絶叫が響き渡り、パチーンと小気味の良い音が執務室にこだました。



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