侯爵令嬢、諌める
イザクの弟。眼前のこの男が。それなら、フェリエドに初めて会った時から度々イザクの面影を感じていた理由にも説明がつく。やはり顔の造形が似ているのだ。イザクの方が相手に強烈な印象を与え、青白い弓張り月のように凄絶な美しさを持っているが。
兄に比べれば平凡でも、フェリエドはフェリエドで十分にハンサムだ。
それに、フェリエドが王子だというなら、王宮にいる理由も納得出来る。
(ううん……やっぱりおかしいわ。たしか陛下の弟は、陛下の母親である王太后と共に別の城で生活しているはず――――……)
だから今まで王宮を訪ねても一度としてフェリエドに会うことはなかった。その彼が、なぜ王宮にいるのか。
「難しい顔をしているね、シエナ。僕の素性を聞いて驚いた?」
フェリエドに顎をくいと持ち上げられて、視線を合わせられる。フェリエドが何者か分からなかったさっきよりずっと彼に対しての安心感は増したが、それでもニフたちの言葉を思い出し、ここで気を抜いてはいけないとシエナは気を引き締める。
「驚いたけど、これでエドに対して抱いていた違和感に得心がいったわ」
「ああ、王子と知ってもエドと呼んでくれるんだね、嬉しいよ」
そこで初めてフェリエドは心から笑い、シエナに頬ずりした。
「それとも、兄上のこともそんな風に呼ぶのかな……?」
「え?」
シエナが訊き返すと、フェリエドが耳元でくすりと笑う気配がした。それから彼は
「残念、もっと話したいけど、もうゲームオーバーみたいだ」
と小さく呟いた。
「エド? 何の話……」
シエナが詰め寄ろうとする。しかし話している途中で、執務室へ繋がる曲がり角から宵闇を携えたような王――――……イザクが姿を現した。
コツリ。イザクの足音は静寂の中を一人闊歩しているように小気味よく響く。足音一つだけでも、他者とは違う圧倒的な存在感があった。イザクが黒衣を翻し、こちらへ歩いてくるだけで、空気が引き締まるような気がした。
「陛下……っ」
ここ一カ月会いたくて仕方なかった――此処へきた目的の人物が現れたことに、シエナの中で希望が膨らむ。弾む気持ちで声を発したが、長いコートを翻したフェリエドに抱きすくめられ、イザクの視界から遮られてしまった。
窮屈な執務の休憩だろうか、たった今角を曲がってきた彼には、立ちつくすフェリエドの姿しか見えないことだろう。
シエナが文句を発しようとすると、フェリエドに後頭部を押さえつけられ、シエナは鼻の頭をフェリエドの胸板にぶつけた。
これでは声が発せないどころか息も出来ない。シエナが焦っていると、フェリエドの前でイザクの足音が止まる。それから、身が竦むほど凍ったイザクの声が聞こえてきた。
「……此処で何をしている」
「やあ、兄上。取り込み中なんだ。邪魔をしないでくれないかな」
フェリエドはイザクに背を向けたまま、首をめぐらして答えた。口調は穏やかだが、抱きしめられているシエナにはフェリエドの身体が緊張しているのが伝わってきた。斜め上に見えるフェリエドの笑顔は、シエナに向けていたものよりぎこちない。
イザクはフェリエドの足元に視線を落とした。フェリエドのコートの裾から女ものの靴が見えたので、彼は弟が昼間から侍女でもたぶらかしていると思ったようだった。
「こんな場所で昼間から女をたぶらかすとは……用がないなら此処から消えろ。それとも勘繰られたいのか? ――――企みでもあるのかと」
「冷たいな、ああ、兄上は僕のことが嫌いだから仕方ないか」
イザクからの返事はない。返答がないからこそ、それが真実だと如実に語っていた。イザクの言葉は刃のように鋭く冷たい。シエナからは見えないが、おそらくあの隻眼も、フェリエドを冷たく見下ろしているのだろう。
(兄弟仲、悪いのかしら……)
仲が悪いのを通り越して、シエナには二人が憎しみ合っているように見えた。そしてそれは正解なのだろう。
険悪な雰囲気をシエナが感じていると、フェリエドの肩越しにイザクが嘲笑う気配がした。こんなに冷たく笑うイザクに、シエナは少しショックを受けた。
「……嫌っているのはお前も同じだろう? 笑顔で取り繕った面の下は、俺の寝首をかこうと、小賢しい算段で必死なんだろうな」
「ひどい誤解だよ。僕は兄上を尊敬しているっていうのに」
シエナは瞬時にフェリエドが嘘をついたと分かった。それほどまでにフェリエドの言葉は薄っぺらかった。もちろんイザクも見抜いたようだった。
「……尊敬だと? 笑わせるな。道化のように戯言しか吐けない愚か者なら、その舌を回らなくしてやるぞ」
「出来ないよ、兄上にはそんなこと。だって、僕に手をかけたら母上が兄上を許さない。父上亡き今、母上が愛しているのはもう僕だけだからね。その僕に何かすれば、母上は気が狂って兄上を殺してしまうかも――……」
「黙れ……っ」
ギリッと噛みしめた奥歯の隙間から、イザクが低く唸った。イザクの怒気が魔力と共鳴したのか、柱にピシリと亀裂が走る。回廊を熱気が襲い、シエナは思わずフェリエドの服の胸元を握りしめた。
フェリエドの大きな手が、シエナの丸い後頭部を一撫でする。それからフェリエドはシエナの頭に口付けを落とし、楽しくてたまらない様子で言った。
「……あまり物騒なことを言わないでよ兄上。そうじゃないと、この子が怯えてしまうだろう?」
「この子だと……?」
イザクが低い声で聞き返す。フェリエドは口が裂けるほどにんまり笑うと、隠していたシエナの背中を押してイザクの前に突きだした。
「そうだよ。怯えてしまうじゃないか――――……シエナが」
シエナはたたらを踏む。急に拘束が解け自由になったシエナの姿を捉え、イザクは隻眼を見開いた。
「陛下……」
シエナが乾いた声で呼ぶと、不意を突かれた様子だったイザクの瞳は吊りあがった。嫌っている弟と愛するシエナの組み合わせに、イザクの中で嫌な想像が膨らんでいく。
「シエナ……!? どうして此処に……どういうことだ! どうしてシエナが貴様といる! フェリエド!! 貴様シエナに何をした!?」
イザクは怒鳴ると、腰にさげていた剣の柄に手をかけた。鞘からのぞく白刃が妖しく光り火花が迸ったところで、シエナは慌ててイザクへ駆けよりその手を押さえた。
「陛下……!? 弟君なのでしょう、剣を抜いてはダメです!」
「どけシエナ――……」
「か、彼とはそこで偶然会っただけです! 私なら何もされていませんから、落ち着いてください……!」
イザクが血を分けた弟相手に剣を抜くなんてにわかには信じがたい。が、怒気を発散させるイザクは本当に今にもフェリエドを殺してしまいそうだった。
「可愛い弟に剣を抜こうとするなんて、ひどい兄だよね。だから母上に嫌われるんだ。ねえシエナ、そう思わない?」
フェリエドが挑発する。シエナは第二王子に向かって「黙りなさい!」と切れた。
「陛下も、ねえ、お願い安い挑発に乗って剣を抜かないで! らしくないわよ!」
シエナが嘆願する。シエナとイザク、そしてフェリエドを真っ二つに割るような稲妻が外に走った。
「……兄上、僕は此処を通りかかったシエナと談笑していただけだよ。誤解はやめてほしいなぁ。もちろん、彼女がなぜ王宮にいるのか、その理由も知らない」
シエナの登場で冷静さを欠いたイザクの様子を心底楽しそうに見ながらフェリエドが言った。イザクは人を殺しそうな目でフェリエドを睨み、吐き捨てるように言った。
「貴様がシエナの名を呼ぶな……!」
「そんなの、僕の自由だろう。――……っ」
フェリエドから余裕が消え、ごくりと喉仏が上下した。イザクの怒りが炎となり、回廊を竜のように囲んだからだ。
「……消えろ」
「……っ」
「二度はないぞ」
短く言い放つと、イザクはシエナの腕を取ってフェリエドに背を向ける。
「へい……きゃっ」
シエナはイザクに半ば引きずられるようにして連れていかれる。イザクの手が熱くて火傷しそうだ。シエナが振り向くと、フェリエドがシエナへ向かって手を振り、何事か囁いていた。唇の動きを読むと「またね」と告げられていることに気付いたが、シエナは困惑めいた視線しか返せなかった。
(フェリエド……陛下の、弟……。どうして陛下を挑発することばかり言ったの……。私を陛下から隠したのも、その後で勿体つけたように陛下の前に突きだしたのも、陛下を怒らせるための演出に感じた……。エドは知っていたんだわ、私たちが鉢合わせすると陛下が怒ることを……!)
あのフェミニストぶった男に、自分は利用されたのだろうとシエナは思った。イザクの怒りに火を注ぐために。
(腹が立つ……! でも今はそれより……)
……イザクもフェリエドも、互いにひどく毛嫌いしている様子だったが、シエナにはその理由を、今全身から怒りを発しているイザク本人に聞ける自信がなかった。
(でも、薄々分かった気がする……きっと陛下の母親が絡んでるんだわ……)
フェリエドは執拗に「イザクは母親に嫌われている」と発言していた。そしてシエナは依然、イザクからイザクの母親は彼の瞳を忌み嫌っていたと聞いた。その二つをパズルのように組み合わせると……。
「……」
シエナは門前でのニフの発言を思い出す。
『ここで何か見ても、いや――――何か見ちまったら、もうお嬢は戻れやせんぜ』
(あれは、陛下とエドの不仲を指していたのかしら)
そう推測するが、シエナはまだ知らなかった。何か、とはエドを指しているのではなく、イザクとエドが不仲である原因――王太后コーデリアを示しているということを。
今日中に「彼が私をダメにします」の方も更新したいと思います。




