侯爵令嬢、目覚める
優しいゆりかごでゆらゆらと揺られているような心地だった。
不安も心配もないお花畑のように穏やかな世界にいる。でもそんな夢はすぐに終わりを告げて、シエナを地獄へと叩き落とす。忘れたくても忘れられない記憶は、夢だというのに鮮烈な痛みを蘇らせ、シエナを苦しめる。めった刺しにされる痛み、残忍な犯人の高笑い、終わることのない恐怖――――……。
「いや、やめて……殺さないで! 死にたくない……っやだよぉ……!」
激しくうなされていたシエナは、ベッドから跳ね起きた。叫んだせいで喉がひりひりする。歯の根が合わない。動悸がひどく、耳の後ろで心臓が鳴っているような心地がした。
視界が暗い。まだ夢の続きを彷徨っているような気分になって、シエナは両腕を抱きながら細い悲鳴を上げた。
「ぃや……」
「シエナ? 落ち着け、大丈夫か?」
乱れたシーツに視線を落とし、混乱したままでいると、頭上から耳に心地よい声が落ちてきた。シエナの背を優しく摩る大きな手に導かれて顔を上げると、イザクが心配そうな顔で覗きこんでいた。
「あ……わた、し……」
声が情けないほど震える。シエナのもう何年も話していなかったような酷い声に、イザクは辛そうな表情を見せた。
何でイザクが此処にいるのだろう。此処はどこなんだろう。暗くてよく見えない、今は夜なのか、私はどうして寝ていたのか――……おびただしいほどの疑問が、シエナの起きぬけの頭を駆け巡る。やがて気絶する前に起こった出来事を思い出すと、シエナは引きつけを起こしそうになった。
「や、や……」
「シエナ」
「死にたく、ない……っ」
瞳は助けを求めるように忙しなく動き、シエナの呼吸が浅くなる。イザクはベッドへ腰掛けると、シエナの丸い後頭部を引き寄せた。
イザクの深い森のような香りに包まれると、シエナの震えが少し小さくなった。
しゃくり上げるシエナへ、イザクはシエナが気絶する前に言ってやったことと同じ言葉を繰り返す。
「俺がいる。俺がお前を守る。だから大丈夫だ」
彼女の背をぽんぽんと叩きながら、安心させるように言う。その言葉は薬のようにじんわりと溶けていき、シエナの全身を巡った。
「……守、る……?」
シエナはイザクの胸に手をついて顔を上げると、宝石のように美しい紅の瞳を覗きこんだ。
「ああ」
「守って、くれるの……? 私、自分で守らなくても、平気?」
「ああ、だからもう怖くないだろう?」
耳元で穏やかに囁かれ、シエナは「うん……」と小さく頷いた。イザクの服の胸元に頬を寄せる。
「うん……守ってくれるなら、怖くない……」
この逞しい腕の中なら、怯えることなんてない。守ってもらえる。
回らない頭でぼんやり考えていると、頭上から「良い子だ」と声が降ってくる。
「だから安心してもう一度眠れ。怖い夢はおしまいだ」
「……うん……」
安心すると、くたびれた身体に強烈な睡魔が襲ってくる。シエナはややあってから、イザクに縋りついたままもう一度眠りに落ちた。一定のリズムで刻まれる心音を子守唄にして眠ると、今度は怖い夢を見なかった。
なんだかあったかい。
安心するような温もりにシエナがすり寄ると、逞しい何かに頬がピタリと当たる気配がした。そのまま鼻を押し付けるようにして匂いをかげば、深い幸福感に包まれる。思わず頬が緩んで薄目を開けると、視界いっぱいに綺麗な鎖骨が広がった。白くて窪んだ鎖骨が目の前で上下している。
「…………きれい」
恐ろしく思考回路の働かない頭で呟く。水につけてふやけきったような頭が徐々に冴えてくると、眼前に自分以外の鎖骨が見えるのはおかしいという当たり前のことに気付いた。
緩慢な動きで目線を上げていくと、鎖骨から妙な色気の漂う首筋、そこから尖った顎のライン、薄い唇に高い鼻梁と続き、やがて長い前髪がはらりとかかった、伏せられた目元へ到達した。……。
イザクだった。
シエナのベッドで、イザクがシエナを抱きしめながら寝ていた。しかも驚くことに、シエナ自身がイザクの背中に縋るように爪を立てていた。まるで全身で必要と叫んでいるように……。
「……まずい、ひっじょーに不味いわ……」
一晩明けて、シエナはやっと冷静さを取り戻した。気絶する前の発言やその他もろもろを思い出し、今すぐ穴を掘って入りたい気分になる。とりあえず起き上がろうと思うものの、がっちり腰に腕を回されているためそれも叶わず、シエナは焦ったまま首をもたげ部屋の様子を見まわした。
寝台の傍へ引き寄せられたテーブルには、見慣れない大量の書類が積まれている。おそらくシエナに抱きつかれて身動きの取れないイザクが部下に運んでこさせ、此処で仕事をしていたためだろう。自分のせいで一国の王を振り回してしまった。申し訳なさすぎる。
シエナは胃が痛むのを感じながら、シーツの中に潜った。
「……というか、私、誰かが一緒なのに眠れたのね……」
常に神経をとがらせているせいか、シエナは普段なら衣擦れの音だけで目が覚める。隣に誰かが寝ているなんてもってのほかだ。
絶対に眠れないと思っていたのに、むしろ、イザクがいることで安心するなんて――――……。
しかもたちの悪いことに、目覚めた今でさえ、イザクの腕の中に収まっているのが心地よいと感じている。
「冗談じゃないわ……しっかりしなさいよ私……なに甘えてるの……」
シエナは昨晩の自分の発言を思い出す。あれは完全に、シエナというより詩絵菜だった。
誰にも助けられずに死んでいった、シエナの前世の想い……。
心の奥底で蓋をして鍵をかけておいた想いが、危険に晒されたことで溢れだした。誰も守ってはくれないから、自分の身は自分で守らなければ潰えてしまうから。そんな虚勢を張ってずっと強気でいたのに、危ない目にあって脆い仮面は一瞬で剥がされてしまった。
だけど、イザクは掬いあげてくれた。あの力強い声で、瞳で、守ると誓ってくれた。
前世では誰も助けてくれなかったのに、今回は違った。イザクが、助けてくれた。
「――――……」
自覚すると、何だかたまらなくなってくる。何か熱い想いが胸の奥から喉にかけてせりあがってくる。物
語の中にしか存在しないと思っていたヒーローは、自分にも存在した。守ってくれた。今も守るように自分を抱きしめてくれている。
どうしよう、とシエナは眉を下げた。気づきたくない感情が芽吹きつつあることを、シエナは嫌でも自覚した。
(……何で助けてくれたんだろう)
私、逃げたのに。妃になることを望まれても、自分には荷が重いと逃げ出したのに、どうして追いかけてきてくれたんだろう。なんで、あんなに汗をかいてまで必死に探してくれたんだろう。どうしてあんなに必死に、庇ってくれたんだろう。どうして、どうして。
シエナはイザクの背に回していた腕を解き、綺麗な寝顔へ手を伸ばした。射干玉の髪をさらりとかき分け、イザクの白い頬を両手で包みこむ。
「……守るなんて、言わないで……」
口から漏れ出た声は、風で掻き消されてしまいそうなほどか細く、切なさを孕んでいた。
「言わないでよ……自分のことで精一杯なのに、ときめいてしまうから……惹かれてしまうから……。私は……」
シエナは睫毛を伏せ、下唇をキュッと引き結んだ。
「陛下のことを守れないのに……」
「――――誰が守ってくれと言った?」
突如降ってきた声に驚いてシエナは目を開く。反射的に顔を上げると、イザクは眉を吊り上げて怒っていた。




