侯爵令嬢、窮地に陥る
シエナが暗闇へ一歩下がると、男は舌舐めずりしながら横揺れしてにじり寄ってくる。
「あれ? 俺もしかして警戒されてる? そりゃそうか、俺はあんたが思っている通り、悪い人間だ」
男の言葉を無視し、シエナは最大限警戒しながら周囲の様子を窺った。武器になりそうなものは何もない。もし男が襲いかかってきたら、上体を低くし相手の顎を突きあげてからひざ蹴りを顔面にぶち込むか――……。
頭でそう計算する。だが、実際に身体が動くだろうか? 頭の中で鳴り響く警鐘は激しさを増す。手が震えるシエナへ、男は夢見るように呟いた。
「しかしすごいなぁ、たまげるくらい綺麗だなぁ、あんた。星を溶かしたような色の髪、新雪のような肌、花の顔……どれも噂通りだ。それに実物は……」
男はシエナへと曲がった鼻を近付け、わざとらしく匂いを嗅いだ。
「薔薇のような芳しい香り……。あんたマニアからすげぇ人気高いんだぜ? 死体愛好家からもな。それに美しい剥製にして飾りたいって話をよく聞くぜ? 殺して差し出せば膨大な金額を手に出来るだろうなぁ。いや、パーツごとに売った方が金になるか?」
「……っ!?」
目をむくシエナを値踏みするように見つめてから、男は卑しい笑みを浮かべてまた一歩近づいてくる。目が血走っていて気味が悪い。
「あぁー良い女だからもったいねえよなぁ……。でも金になるなら殺した方がいいよな?」
シエナの頬が恐怖で引きつる。人間離れした美貌だと言われるシエナだが、剥製にされて本当に人形のように飾られるのはごめんだ。
ジリ……とまた一歩、シエナは暗がりへと下がる。膝が笑って上手く走れる自信がなかった。この危機を脱する未来が想像出来ない。
(何してるんだろう私……。誰よりも長生きしたいって今生ではあんなに気をつけていたのに、一時の油断でこんな状況に追い込まれるなんて……)
でも前世でもそうだった。単調な日々は通り魔によって突然断ち切られた。
あの日、もっと人通りの多い道を歩いていれば、近道と思って暗い道を選ばなければ、あの時間にあの場所を通らなければ、私に護身の術があったなら――……。
身体をめった刺しにされている最中も、転生してからも、ずっとそう悔み続けた。それからずっと警戒していたのに――――……また危険な状況に追い込まれるなんて。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
「怯える顔も絵になるけどよ……」
男は恍惚めいた息を吐き出しながら、懐から銀色に光る折りたたみナイフを取りだした。鈍い光を放つそれに、シエナの全身が凍る。
「苦痛で歪んだ顔はもっと綺麗なんじゃねえのか? なあ、侯爵令嬢さんよ」
「…………っ」
シエナの心臓が痛いほど鳴る。足に力が入らず、下半身がゴムになったようにおぼつかない。気持ち悪い。不安定に揺られているような気持ち悪さだ。男のナイフに映る自分の顔は前世と違うはずなのに、恐怖で歪む顔は刺殺されたあの時と同じようだ。
シエナの息が上がる。額に冷や汗が滲んだ。内臓が一段下がったみたいに気持ち悪い。
「やめて……」
シエナはうわ言のように言った。
「やめて、やだ来ないで……」
フラッシュバックする、あの夜。寒くて凍える中、後ろからつけてきた男にいきなり襲いかかられた。
泣きながら逃げたけれど恐怖で足はもつれ、声が思うように出ず助けも呼べない。転んだところで後ろから背中を刺され、焼けるような痛みに呻いている間に仰向かされると馬乗りになられた。月明かりで見えた男の顔は狂気に染まり笑っていた。
泣いて懇願しても決して止めてはくれず、鋭い切っ先を埋め込まれ身体のあちこちが悲鳴を上げた。
あの時の恐怖をまた体験するのかと思うと、涙で視界が滲む。
今になって、ああ、初対面でナイフを投げつけてきたニフは本気でシエナを殺すつもりなんてなかったのだと気付いた。ニフに殺気がなかったからあの時は動けたものの、今は恐怖でその場に足が縫い止められてしまったように動かない。現世では誰より生き残るために努力してきたのに、死の恐怖の前では無力だ。
「やだ……」
涙声でシエナは首を振った。足がもつれてその場に尻もちをつく。あの日の恐怖がシエナを苛め、鎖のようにその場へ繋ぐ。死の気配を感じ、シエナの瞳から涙がこぼれた。
(いやだ――……誰か、誰か……!)
誰かって、誰だ。絶望がシエナへ語りかける。
前世では誰も助けてはくれなかった。助けなんてこない。凍える中、一人痛みに苛まれて一生を終えた。
誰も救ってはくれない。助けてはくれない。だから必死で、生き残る術を今生では学んだ。でも、こんなところで、こんなにあっけなく潰えてしまうのか。
(……また……一人孤独に死んでいくの……?)
こんな掃きだめのような場所で、誰にも看取られずに。
「死にたくない……」
震える手で、堪えるように地面を引っ掻く。あまりの力に爪が一枚はがれた。男はナイフを舌で舐めてから「良い顔だぁ……」と囁くと、ナイフの切っ先をしっかりシエナに定めた。
「や……っ」
顔に寝かせたナイフを当てられ、シエナが短く息を呑む。頬骨から滑るように上がってくる冷たい感触、目の下が針で刺されたようにちくりと痛む。シエナが息をする度に、切っ先が食い込み、死の匂いがますます濃くなった。
(やだ……助けて……助けて……! 陛下……!!)
思わずイザクの顔が浮かぶ。それに驚いて目を開けると、涙で歪む視界に広がったのはやはり絶望だった。下種な笑みを浮かべた男の顔だけ……。
(何を期待したの。どうして陛下が浮かんだの。誰も来ない。陛下だってきっと――……)
シエナの瞳から光が消えていく。
「ラッキーだよなあ、俺。こんなところで侯爵令嬢に会えちまうんだから」
男は高ぶった声でシエナに言った。
「死ぬ前にその可愛い声で答えてくれよ。なあ、そのブルートパーズのような眼球をえぐりとって売るだけでいくらになると思う?」
「……っ」
柔らかい下あごをナイフの腹でクイッと持ち上げられ、シエナは覚悟を決めたように目を閉じた。その時――――。
「――――こいつを俺のような隻眼にさせるわけがないだろう」
(え……?)
一閃。
ヒュッと風を切るような音がしたと思うと、次の瞬間に悲鳴を上げたのはシエナではなく、フードの男の方だった。
驚くシエナの肩が強い力で抱かれ、固い胸板へと引き寄せられる。シエナが顔を上げると、息を切らし首筋に汗を纏わりつかせたイザクが、シエナを抱き寄せ、男を烈火の如き視線で貫いていた。




