侯爵令嬢、逃亡する
イザクの怒気を孕んだ目は双子に向いている。
白刃のように冷たいイザクの雰囲気は、常人ならば卒倒しそうなほど怖いが、ニフとロアは悪戯がばれた子供のように目を見合わせるだけだ。
ロアが一歩前に出る。
「主、一人で出歩くなんて危ない……」
「護衛はつけてきた。それに、主人を放ってこんな所で油を売っていた奴らが言うのか?」
イザクは冷たく言い放った。
「よく俺らが此処にいるって分かりやしたね、イザク様」
ばつが悪そうにニフが言った。
「時間を見つけては侯爵家へ行こうとしていたと報告があったんでな」
イザクがそう言うと、ニフは小さく舌打ちしながら「誰でい、チクったのは」とぼやいた。イザクの紅蓮色をした目がつりあがり、温室の温度が下がった。
「他に言うことはないのか? 頼んでもいないのに勝手なことをするな」
絶対零度の声色で言われ、流石の双子も竦み上がり謝った。
「シエナ、嫌な思いをさせたな。こいつらの言ったことは気にしなくていい」
イザクがシエナに向き直って言う。その声が先ほどと打って変わって優しいため、シエナはああ、この人は本当に私を好いてくれているのだと痛感した。
「いえ……」
イザクに会うのは聖火祭でのキス以来だ。思い出したらどうしても彼の唇へ意識がいってしまう。
イザクの唇が整っているのは知っている。唇だけじゃない、彼自身が匂い立つような色気を孕んでいるし、危険なかっこよさであることも知っている。イザクのシエナに対する柔らかい態度に気付かなければ、こんな悪魔的に美しい男が自分に惚れているなんてシエナには信じがたいくらいだ。
そして自分で想像していた以上に、シエナはイザクに今会いたくなかったことを自覚してしまった。だって気恥ずかしいし、照れるし、気まずい。宙ぶらりんな状態のまま会うことに気も引けた。
(陛下は返事を待ってくれると言ってくださった。でも、私はそれまで陛下に会わせる顔がないんじゃ……)
「シエナ……?」
沈黙を貫くシエナを心配し、イザクが距離を詰める。
「顔色が悪いぞ? だいじょう――……」
「大丈夫です!」
イザクの手がシエナの肩へ伸びてきたところで、シエナは思わずその手を払い、固い声で言った。イザクが意表をつかれた顔をする。それから彼の切れ長の瞳が、辛そうに歪んだ。その表情を見て、シエナの胸に罪悪感が破片となって突き刺さる。
(拒絶と受けとられてしまったかしら……)
「すみません陛下、私ったら大きな声を……」
行き場をなくしたイザクの手が宙をさまよう。シエナはとんでもないことをしてしまったと青ざめながらもう一度謝った。
「すみません、陛下――……私……」
イザクを拒絶したかったわけじゃない。自分がイザクにふさわしくないと思ったから、気にかけてもらうことが申し訳なくなったのだ。
しかしシエナの気持ちを知らないイザクは、固い面持ちで尋ねた。
「聖火祭でいきなりあんなことをしたから、怒ってるのか?」
「え……」
「お前の気持ちを確かめずに嫌われるようなことをした自覚はある。だが、俺はお前に嫌われても諦めるつもりはない」
「……!」
(突き放したくはない。この人を。中途半端に救っておいて、今更突き放すなんて不誠実だ。でも、私は……)
シエナの中に占める思い。それは多分、イザクも仲の良いリリーナも、父親であるオルゲートすら知らない。まだ誰にも言っていないし、シエナ自身、ついさっき気付いたのだ。
「すみません陛下」
「何をそんなに謝ってる」
「だって、私、陛下に合わせる顔がなくて。私じゃ陛下にはふさわしくないんです……。私じゃ陛下を幸せに出来ないし、陛下を守れない……」
「……どういう意味だ? 分かるように説明してくれ」
イザクに強い語調で言われる。シエナはあちこちに視線を彷徨わせてから、手に持っていた剪定ばさみをギュッと握った。
「余裕が、ないんです。私に」
分からないという表情を浮かべるイザクに、シエナは絞り出すよう白状した。側妃になることを躊躇う理由を。
「私、誰よりも生きていたいんです。人に構ってられないほど……だから、そんな私では、陛下を満たせないんです」
今生で十五を迎えた頃から、いつか愛してもいない貴族の誰かと結婚するかもしれないとぼんやり考えてはいた。
オルゲートはシエナにとても優しいから、政略結婚をしろとは無理強いしないと思っていたが、もし自分が適齢期になっても特定の相手がいなければ家柄に見合った相手の元に嫁がされると思っていた。シエナは特にそれを嫌とも思わなかった。
では何故、これ以上ない良縁のイザクからの求婚に二つ返事で頷けないのか、踏みきれないのか――…それはシエナが、自分が生き抜くことで手いっぱいだからだ。
ニフたちに以前「陛下には愛する人と結ばれてほしい」と言ったのも、本心ではあるが最終的には言い訳だ。
「そうよ、自分のことしか考えられないのよ、私は……」
シエナはイザクに向けてではなく、自分に向けて絶望的な声で呟く。
イザクのことは多分その辺の知り合いより好ましく思っている。前世のシエナなら、イザクの見た目や優しさに惹かれただろうし、好意を抱いてプロポーズされた日には天にも昇るような気持ちで舞い上がったかもしれない。
でも、現世では?
今生では誰より長生きしたいと思っている。だから、他人に目を向けてはいられない。
「陛下は愛に飢えておられるから、沢山の愛を与えてくれる人が妃に収まる方が幸せになれます。こんな自分のことで手いっぱいの私じゃ、陛下を幸せには出来ません……」
自分を守ることで手いっぱいだから、陛下まで守れない。そんな自分が陛下に好かれるのは、優しさや愛情を向けられるのは、申し訳ない気持ちになるのだ。
自分を好いていない、幸せいっぱいの貴族にでも求婚されたなら、こっちももっと気楽に承諾できたのに、とシエナは思った。
そんな相手なら、わざわざ自分が幸せにしてあげたいとは思わないし、守ってあげたいとも思わないから。きっと放っておいても幸せに生きていくだろうと思うから、自分も自分のことだけに没頭出来る。
でもイザクは、この王は――――悲しい。
言葉の端々から、愛されて育たなかったことが窺えるし、愛情に飢えていることも伝わる。人を信じるのが苦手そうで、でも一度気を許したならとことん懐へと招き入れる優しい気質なのも知った。そんな彼には、幸せになってほしい。
だから彼だけを見て、沢山の愛情を注いでくれて、献身的に支えてくれるような女性がイザクの隣にはふさわしいとシエナは思う。自分ではないのだ。常に死の影を恐れている自分では、いつもイザクに心を割いていられない。
「……ごめんなさい」
シエナはイザクに謝る。イザクの整った顔が厳しくなっていくのを見ていると、シエナはいたたまれない気持ちに駆られ、一歩、また一歩と距離を取りながら、とうとう温室から逃げ出した。
「シエナ? ……待て! シエナ!」
背後からイザクの険しい声が飛ぶ。が、シエナはもう、あの場にいるのは限界だった。
それどころか館から逃げ出してしまった。館の中に居れば、イザクが追いかけてきそうな気がしたからだ。イザクが諦めて王宮へ戻るまで、自分の家でさえもくつろげはしないと思った。




