侯爵令嬢、煩悶する
唇に残るキスの感触にじたばたと悶えたのは、前世のファーストキス以来かもしれない。
朝部屋の窓を開け放つ際に自分の唇がガラスに映った時、ドレッサーの前で支度をしている時、食事中にスプーンを手にした時、事あるごとにシエナは自分の唇を見て、それから眼前に迫ってきたイザクの色っぽい表情を思い出して悶えてしまう。
特には意識していなかったはずなのに、自分も女子なのだと嫌でも考えてしまうシエナ。キスされた瞬間はいっぱいいっぱいだったが、王様に、それも国で一番美形だろう王様にキスされて挙げ句プロポーズまでされれば、流石にシエナだってときめくし思い出すと顔を覆いたくなるくらい気恥ずかしくなる。
あの夜のことを思い出しては挙動不審になる主人にリリーナは若干冷めた視線を送っていたが、シエナは気付かない。
しかし思い出に浸って盛り上がるだけ盛り上がったシエナが最終的に辿りつくのは、これからどうしようという混乱だった。オルゲートはシエナが求婚された件を知っている様子だったが、未だに何も言ってはこない。シエナはううんと呻く。
(私は陛下の気持ちに応えられるの……?)
以前よりもずっと、シエナはその問題に直面していた。
さらにシエナを悩ませていたのは、人々の噂だ。そのため、聖火祭から三日、ラジオに新聞、外界からの情報を完全にシャットアウトし、シエナは館から出ないようにしていた。
館の中は平和なものだった。長年の付き合いで気心のしれた者ばかりだし、噂好きの使用人はリリーナが牽制してくれるのでシエナに嫌な情報をもたらすものも訊き出そうとする者もいない。知らないというのは平和だ。
父の統括する領民と交流出来ないのはもどかしいが、世間の目が落ち着くまでは仕方ない。シエナはそう自分に言い聞かせ、剣術の稽古に励んだり医学書を読みあさったり、防具を磨いたりしていた。
なら何故噂がシエナを悩ませているのか――理由は簡単だ。無機物は断絶出来ても、向こうからほいほいとやってくる者は止められない。特にあの双子は。
使用人をどう言いくるめたのか――大方その無駄にアイドルのような容姿で口説き落としたのだろう――シエナの温室までやってきたニフとロアを見て、シエナは眉間にしわを寄せた。
この双子、シエナがかたくなに締め出していた情報をほいほい教えてくるのだ。頼んでもいないのに。
「新聞は連日お嬢のことを好き勝手に書きたててやすよ。スキャンダルは需要があるんでしょうねえ、特に美男美女となれば」
シエナはネーブラの葉を剪定しながらニフの話を聞き流す。反応したら負けの気がした。
「真相を誰も知らねえもんですから、筆を好きに滑らせてんでしょうねい。色々書かれてますぜ? お嬢が側妃になる説、それから、実は暗殺者とグルで毒を仕込んだのはお嬢という陰謀説」
「ちょっと、それって名誉棄損なんじゃないの」
反応しないつもりだったのに、根も葉もない不名誉なことを書き綴られていると知り、思わずシエナは声を上げた。双子に対しては敬語なんて不要だと思うと、口調が荒々しくなる。魚が釣れたとばかりにニフの口が弧を描いた。
「それだけじゃないですぜ。我らがイザク様も好き勝手書かれてまさぁ。国民は錯綜する情報に振り回されっぱなし」
シエナは『イザク』という名に過剰に反応しないよう、剪定ばさみを持つ手首をもう一方の手で押さえた。ロアとニフはキスシーンを見ていたのだろうかと勘繰りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「まあ、祭であんな事件が起きたわけだし、国民が色々と邪推してもおかしくはないけど……」
「まさに。イザク様の暗殺未遂は、民の不安を招いちまいやした…、恐怖、それから猜疑心。『イザク陛下は暗殺されるような恨みを買うお人柄なのではないか』と」
「そんな」
国民たちの疑心が思いもよらぬ方向に進んでいることを知り、シエナは手元が狂い新芽を切り落としてしまった。
「陛下はそんなお方ではないじゃない」
シエナが睨むと、ニフとロアは「もちろん」と力強く言った。
「ただ、陛下と接する機会の少ない民は、新聞記事やあらぬ噂に惑わされて好き勝手なことを吹聴し信じだす。そんな暗いニュースを掻き消し人々の目を反らすにはビッグニュースが必要でさぁ」
「ビッグニュース……?」
不審そうな目を向けるシエナに気付いているのかいないのか、ニフはちょっと考える振りをする。
「例えば、そうですねぇ」
「陛下の身を案じた侯爵令嬢、側妃になる決意を固め王宮へ……とか」
ニフの言葉を、ロアが引き継いだ。シエナは思わず大元の幹をチョキンッと切り落としてしまった。
「はいっ!? てゆうか、私の可愛いネーブラがっ! この花を摘み取って魔法薬を調合したらトリカブトの毒を打ち消せるのにっ!」
悲鳴を上げるシエナへ、ニフは頭の後ろで手を組みながら言う。
「いいと思いますぜ? イザク様を振った不遜な女から一転、お嬢はイザク様の命を救ったヒーロー? ヒロイン扱いでさぁ」
「そういうのに興味はないわ。人の噂は七十五日っていうし、悪いことをしたわけじゃないし、時間が経つのを待つわよ」
「ええー。イザク様は折角お嬢に惚れこんでるのに。お嬢、言ってやしたよね? 『陛下には愛する人と結ばれてほしい』って。陛下の愛する人はお嬢じゃねえですか。お嬢が快諾してくれりゃめでたしめでたしなのに。何を悩む必要があるんで?」
「め……っ」
シエナは口をぱくぱくとさせる。
(くそう……! やっぱりチャラ男たちは陛下が私に告白したこと知ってるのね……!)
シエナは剪定ばさみをニフに向かって投げつけたい気持ちになった。
イザクがシエナのことを本気で好きになってしまったからこそ、シエナはここ数日頭を悩ませているというのに。
「側妃になるのは嫌なんですかい? 正妃じゃないと嫌とか?」
「そういうわけじゃ……」
歯切れの悪い返答をし、シエナは黙りこくる。
(というか、何で私がこいつらに押されっぱなしなのよ!)
「ですよねぇ。お嬢は権力に固執するタイプには見えねえし」
「……私が側妃になれば、他の貴族たちも黙っていないんじゃない?」
「それはそうでしょうけど、イザク様がお嬢を望むなら他の貴族たちには止められやせんよ。それに、正妃と違い側妃は何人でも抱えられやすし、他の貴族たちにもチャンスはある。大して問題ないはずでさぁ。あ、それとも、陛下に他の側妃が出来る可能性が嫌なんですかい? いつか側妃が増え、その中の一人になるかもしれないのが嫌?」
……そりゃ、前世の感覚が拭えないため、正妃云々よりそもそも妻は一人であってほしいという感覚はシエナの中にある。が、この世で十七年間侯爵令嬢として生活してきて、そう言ってはいられないのだろうと理解もしている。
この国の繁栄と安寧の為には、世継ぎが必要だ。だから陛下の子を産んでくれる妃が多いに越したことはない。
そう、数ある子供を産むためだけの存在になってしまうのが嫌だから側妃になることに返答出来ないでいるなんて、そんな可愛い理由ではないのだ。シエナが踏みきれない理由、それは――――……。
シエナの表情が暗くなる。ここ数日考え抜いた末に、とうとう理由に思い当たってしまったからだ。
(私がすんなり頷けない理由、それは……)
「ニフ、ロア。こんなところで何をしている」
背後から厳しい声がかかった。
夜の底を這うような声にシエナが肩を震わせると、温室の入り口にはイザクが立っていた。




