侯爵令嬢、祭を楽しむ
前回に引き続きデート回です。
外は日が傾き、空のキャンパスはオレンジと紫のコントラストを描いていた。暗くなれば顔も見えづらいし、行動しやすくなる。イザクも仮面をつけ直した。
ニフとロア、それからこそこそとしていたシエナの護衛には、イザクが離れた距離から見守るよう言い渡す。
「野暮なことはしませんぜ」
ニフは下衆な笑みを浮かべて言った。
「なんせイザク様とお嬢の初デートですし。俺らはこっそりと楽しませていただきまさぁ」
いらぬことを言うニフの口をこれでもかと引っ張ってから、シエナとイザクは祭の中心へと向かった。
でも、デートか、とシエナは心中で呟く。何だか楽しくなってきたかもしれない。足取りが軽くなるのを自覚しながら、シエナはイザクの横に並んだ。
屋台はライトアップされ、酒の入った客たちも増えて昼間とはまた違う雰囲気が広がっている。
リリーナに土産を買うのが目的と言いつつも、なんだかんだ祭を楽しんでしまっているシエナ。エドといた時は彼をどう振り払えばいいか考え完全には楽しめていなかったせいかもしれない。今は存分に音楽隊の演奏や漂ってくるグリューワインの香りに酔いしれていた。
「ホットチョコレートだ!」
甘いチョコレートの香りに誘われ、シエナはホットチョコレートの売っている店を見つけて顔をほころばせた。
「陛下は甘いものは平気ですか? っと……」
街中で陛下と呼ぶのは不味かったかもしれない。シエナは口元に手をあて、周りの反応を窺う。これだけの喧騒だ。シエナの声は誰にも届かなかったようで、シエナはイザクに苦笑いしてみせた。
「イザクでいいぞ?」
「恐れ多いです」
「だがいつもの呼び方だとばれるだろ」
「まぁそうなんですけどね……」
シエナは店員からホットチョコレートと、イザクの分のグリューワインを受け取りながら言葉を濁す。
「それにしてもすみません、私、お金を出していただいてばかりで」
恐縮するシエナだが、イザクは何でもないという風に言った。
「俺が好きでしていることだから気にしなくていい。本当は、礼もしたいんだがな」
「お礼?」
「薬の」
言いながら、イザクは仮面の右目部分をカツンと指で叩く。シエナはイザクが、シエナの作った薬を塗ってくれているのだと悟った。
「お礼なんて、今日していただいたことで十分おつりがくるくらいです。それで、どうですか? 効果は?」
「手の方はすっかり治った」
イザクは手のひらを握ったり開いたりして調子を確かめながら言った。イザクの大きな手のひらを覗きこむと、確かに太い棘が刺さった時にはぽっかり空いていた大きな穴が綺麗に塞がっている。
「目の方も、お陰で少し良くなった気がする」
「嘘ばっかり。そんなすぐに目の傷痕が薄くなったりはしませんよ。根気よく続けてくださいね」
不遜な雰囲気を纏いながらも実は気の優しいイザクに、シエナはクスクス笑う。イザクは仮面の奥にあるシエナの目を透かすように見つめた。
「それは、また薬をくれる気なのか?」
「もちろん、お渡ししますよ」
「……じゃあお前は……」
イザクは少し言いあぐねてから、固い声で続ける。
「俺とこれからも会う気があるのか? それは……どういう関係でだ……?」
どういう、関係。シエナは頭の中で反芻する。
(…………)
シエナは祭に来るまで憂鬱だった気持ちを思い出す。そうだ。自分はイザク陛下の求婚を袖に振っていたのだ。だからあんなに会いづらかったのではないか。
側妃になることを断りながら、どういう形でこれから陛下と関わっていくのか――……。
(何なんでしょうね、陛下と私の関係性は……)
まだ友人、ではない。ならば知り合い? 何にせよ宙ぶらりんな関係だと思う。
「……友人から始めよう、そう言うつもりだったか?」
シエナが返答に窮していると、イザクがそう言った。シエナは瞠目する。
「……あ……」
「――――走るぞ」
「そうですね……って、へ? え? 走る!? え、ちょっと陛下……!?」
真面目な話をしていると思ったらいきなりイザクに「走れ」と言われ、挙げ句腕を引っ張られた。シエナはつんのめる。
(え? え? なんでこの話の流れでダッシュ?)
訳が分からないまま走っていると、後ろから
「今の陛下と侯爵令嬢じゃなかったか?」
と道行く人々の声が上がった。
どうやら正体がばれそうになったから駆けだしたらしい。それならそう言ってくれればいいのに! 急に走りだしたらビックリするじゃない!
そんな怒りが湧いてくるが、突然全力疾走したせいで脇腹が痛くなり、シエナに文句を口に出す余裕はなかった。
「へえ。すごいな、零さなかったのか」
人波を縫うように走り人気のない路地に入ったところで、イザクは立ち止まってシエナの持ったマグカップを見ながら言った。ホットチョコレートもグリューワインもとっぷりとカップの中で揺れている。
肩で息をしているシエナは、呼吸が整ってから噛みついた。
「ギリッギリでしたよ! あと少しで零してましたよ! 私にウエイトレス経験がなかったらアウトでしたよ!」
「? 経験あるのか?」
「…………ございません」
シエナは目をそらして言った。
危ない。前世で飲食店に勤めていたことがあったので、ついポロっと零してしまった。グラスに入ったドリンクが零れないよう脇を引き締めて盆を持つという癖がここで発揮されてしまうとは……。染みついた癖とは怖いものである。
シエナは額の汗を拭いながら、走りだす前のことを思う。
(……偶然かもしれないけど、上手く陛下に話を反らされた気がするのは気のせい……? まるで私の返答を聞くのを拒んだかのような……)
シエナは首を振り、勘ぐりすぎだと考えを打ち消した。
「シエナ? ヒールで走ったから足痛かったか?」
「大丈夫です。サイズもピッタリだし、羽根みたいに軽いし。でも、今度また走る時は前もって声をかけてください」
シエナはイザクにグリューワインを渡しながら言った。イザクは悪い、と短く言う。
「少し浮かれてるかもな。女とこんな風に外を歩くのは初めてだ。まさか自分がこんな風に女と打ち解けて、祭を見て回るなんてな……しかも存外楽しくて驚いてる」
「それは……良かったです」
イザクに楽しいと言われて、嫌な気はしないシエナ。きっとこの王は、女性の経験人数は豊富だろうと思う。王宮に招いていた女たちを抱いていなかったとしても、ふらりと歩いているだけで色気がだだ漏れの美青年を放っておく女はいない。
でも、楽しませたのはシエナが初めてだというなら、そりゃあ嫌な気はしないのが女心ってものである。
表ではシエナたちと同じ飲み物を手にした人々が高らかに乾杯していた。シエナはそれを見ながら、「私たちも乾杯しましょうか」と言った。
「いいな」
イザクがマグカップを掲げる。
「何に乾杯する?」
「うーん、そうですね。再会に」
「……ああ。そうだな、また会えて嬉しい」
心のこもった声で言われたせいか、シエナは乾杯後の一口がやけに甘ったるく感じた。自分もグリューワインにしておけばよかったかもしれない。
(好かれているのかと勘違いしそうになる……陛下は私を人として気に入ってるだけなのにね)
勘違いをしてはいけない。ただ、祭を楽しむことは問題ないだろうと、シエナはまばゆい光に包まれた一帯へ視線をめぐらせた。
次回はやっと投稿したかった話なので、聖火祭編のクライマックスになるんじゃなかろうか……と思います。ここまで読んで下さった方、ありがとうございました^^




