侯爵令嬢、帰宅する
「ただいま我が家! 帰ったわよ我が家! んーっ! お家の匂い!」
ホワイトフローラルの香りがする自室の空気を胸いっぱいに吸いこみ、シエナは満足げに言った。そのままベッドにダイブすると、後ろからリリーナの苦言が飛んでくる。
「はしたのうございますよ。シエナ様」
「だって緊張の糸が緩んじゃって……あーもう、つっかれたー!」
「シエナ様ってば……水の精霊と謳われる見目とは裏腹におてんばなんですから、リリーナは本当にひやひやしたんですよ」
そう言えば、自分が一晩イザクと過ごしていた間、このシマリスのような少女は隣室でシエナの身を案じてくれていたのだ。ビー玉のようにまん丸の瞳をゆらゆらと揺らすリリーナに罪悪感が湧き、シエナはリリーナを招きよせ抱きしめた。
「本当に、ほんっとうに心配したんですからね」
「ええ、ありがとうね」
妹のように思っているリリーナの背をぽんぽんと叩いてやりながら、ふとイザクのことを思う。イザクにも砕けた会話を交わせるニフとロアという従者がいた。
(でも、それでも私を傍に置きたいと言ったのは、同性には癒せない傷が陛下にあるせいかしらね……)
それとも、伊達政宗みたく片倉景綱のような頼れる忠臣が居ればよかったのかしら。ニフとロアはどちらかというと血気盛んな弟みたいな感じだったものね、とシエナは思う。
帰ってきたというのにイザクのことばかり考えている気がする。
いつもの調子が出ないので、魔法薬を作る為に栽培している薬草の様子でも見てこようかと思い始めた時、ノックの音が響き、能天気な笑みを貼りつけたオルゲートが姿を現した。
「おや? 帰宅の挨拶がないと思ったら、仲良く二人で抱き合ってるなんて微笑ましいじゃないか。私も混ぜ――――いだいっ!!」
電光石火、シエナは父親へ渾身の右ストレートを決めた。赤くなった頬を押さえてもんどり打つオルゲートへ向かって声を荒げる。
「こっっっのタヌキおやじー!!」
「ええっ!? ひどいじゃないかシエナ! お父様に向かって何てことを言うんだい?」
「ひどいのはどっちですか! お父様、本当は陛下が色狂いじゃないって知っていたんでしょう!? 知っていたくせに黙って私を王宮へ向かわせたのね! それだけじゃないわ、貴方って人は――……」
「それだけ怒るってことは、陛下の本当の人柄を知れたってことかな? どうだった? 一晩接してみて分かった陛下の人柄への感想は?」
「あの人は、貴方は―――……っ」
上手く話の方向を変えられた気がして面白くなかったが、シエナは言葉を切り、イザクについて思い返した。
「……イザク陛下は、思慮深くて、とても繊細で……傷つきやすい方でした」
「そう。シエナなら気付いてくれると思ったよ」
視線が下がっていき俯いたシエナの頭に、オルゲートが優しく手を置く。しかし、シエナはパッとその腕を掴むと、勢いよく一本背負いしベッドへ投げとばした。
「シエナ様っ!?」
リリーナとオルゲートは目を白黒させたが、シエナはフンと鼻を鳴らした。
「私、まだお父様には怒っていますので」
「ええー……。別に騙してたわけじゃないよ。シエナに直接陛下の人柄を見てもらって、救ってあげてほしいと思っただけなのになぁ。陛下の右目を見てもきっとシエナなら拒絶したりしないって信頼したからこそ頼んだのに」
「右目のことは何のことか存じませんが、シエナ様は陛下の従者にいたく憤慨し、盛大に陛下を振って帰ってきましたよ」
「ちょっと! それを言わないでよリリーナ!」
可愛がっている侍女に裏切られ、シエナは美しい顔を歪めて呻く。オルゲートは楽しげに声を上げて笑った。シエナは口ごもる。
「それについては失礼なことをしたと反省しております……。あの、お父様の肩身が狭くならなければいいのですが……」
「大丈夫さ。陛下は怒らなかっただろう?」
まるでその場に居合わせイザクの反応を見ていたかのように、オルゲートは疑いなく言った。
「はい……」
「懐の深い方だからね」
「ええ……」
そんな方を傷つけてしまったのかと思うと、シエナの胸はまた痛む。暗い気持ちになっていると、切り替えようとするかのようにオルゲートがパンと手を叩いた。
「ああ、それはそうとシエナ」
「今度はなんです」
「おかえり。無事に帰ってきてくれてありがとう」
そう言って破顔し、オルゲートは両手を広げる。まだ色々と不満が残るシエナだったが、一気に毒気を抜かれてしまい、「やはりこの人には弱いなぁ」と思いながら、広い胸の中へと飛び込んだ。
「……ただいま、お父様」
イザクが愛に飢えているように、シエナも前世から愛に飢えている。イザクの求婚を断ったのは、もう少しこの温厚ではちゃめちゃな父親と一緒に居たいからかもしれないな、とシエナは思った。




