侯爵令嬢、頭を痛める
シエナの根底にはいつだって死への恐怖がある。
まんまとその部分をニフによって(図らずもだが)刺激されてしまったシエナの興奮は、鎮静作用のあるカモミールティーを三杯飲み下すまで落ちつかなかった。この世界にもカモミールがあって良かった。ビバ・ハーブである。
朝食も勧められたのだがシエナは首を縦には振らず、一刻も早く帰りたい旨を伝えた。しかし馬車の準備が整うまで待たねばならず、主人の様子を見かねたリリーナがお茶をいれてくれたところだった。
「シエナ様ったら、心臓が止まるかと思いましたよ」
「言わないでよリリーナ、自分でも大失態だったと思ってるわ」
テーブルに伏せってシエナは呻いた。
どうにも自分は前世のトラウマから、自分の身の危険を感じると平静を失ってしまうらしい。侯爵令嬢ともあろう者が取り乱した挙げ句、使用人が何人も見ている中でイザク陛下をこっぴどく振るなんて、とんでもなく不敬な振る舞いをしてしまった。イザクが何も怒らなかったのが不思議なくらいだ。
それどころかイザクはリリーナに「主人を落ち着かせてやれ」とまで言ったのだ。どちらが年上なのか分からない。いや、現世の年齢だけでいえばシエナはイザクの年下ではあるのだけど。
「傷つけてしまったかしら……」
あの繊細で傷だらけの王を。
そう思うとシエナの胃がキリリと痛む。
「ハーブティーの飲み過ぎではないですか」
「心を読まないでよリリーナ。小動物みたいに可愛い顔して毒舌ね」
針のように尖った言葉で突いてくるリリーナにいじけながらも、シエナはやはりイザクと結婚は出来ないと思った。
(――誰になんと言われようと、危険は何より嫌いなのよ……!)
シエナが悶えていると、王宮の使用人が顔を出した。
「お車の用意が整いました」
「あ、ありがとう」
馬車の止まっている場所まで移動する途中、シエナは使用人たちから好奇の視線を向けられる。
どうやらシエナがイザクの申し出を断ったことは、短時間で王宮中に知れ渡ったらしい。使用人たちは表面上こそ恭しく壁際によって頭を垂れるが、我らが王を振った侯爵令嬢はどんなものかと、興味に満ちた視線を送ってきた。
どうせいつものように王に捨てられて終わるだろうと踏んでいた昨日とはえらい違いだ。
「陽の光に透けて輝く白銀の髪はまるで絹糸のよう……! なんて美しいの」
「それより見て、白磁のように白い肌に細い体! 陛下は浮世離れした美しさの方がお好みなのね……」
「陛下が朝まで共にした令嬢に求婚するなど初めてのことだぞ。それほどネイフェリア候の令嬢をお気に召したということか」
「だけど断ったという話よ」
「なんて不遜な。珠のように美しいからといって陛下の側妃になることを断るなど無礼にもほどがある」
「炎王と水の精霊……お似合いですのにねぇ」
使用人たちのひそひそ話は影のようにシエナの後を付いて回った。うんざりしてきた頃、陽のさす柱廊に出る。そこから見える庭の景色が色彩豊かな絵画のように素晴らしくて、シエナは憂鬱な気分を忘れて歓声を上げた。
「素敵……あら? あそこに咲いてるのはユリランカの花かしら? 栽培が難しいという話だけど……」
「ここの庭師が丹精込めて育てたものですよ。少し見ていかれますか?」
初老を迎えようとしている使用人が優しい物腰で言った。居心地の悪い王宮から早く脱したかったが、シエナはユリランカの誘惑に抗えず頷いた。
「花弁の表面がきらきらと輝いて美しい花ですわね」
パールの微粒子でも入っているように輝く桃色のユリランカを眺めながら、リリーナが言った。シエナはうっとりしながら言う。
「これがあれば弛緩剤の解毒薬が出来るのよ。いいなあ、ほしいなあ……弛緩剤を打たれて自由な動きが取れずに殺される危険性を回避出来る素晴らしいアイテムよね……」
「シエナ様に一般的な花の愛で方を求めた私が愚かでございました……」
ひどく後悔したような口調でリリーナに言われ、「何よ」とシエナはむくれる。王宮の使用人は「よければ、いくつかお摘みいたしましょうか」と申し出た。
「いいんですかっ!?」
パアッとシエナの表情が華やぐ。
「あ、でも……」
(陛下との結婚を断ったのに、甘えるのはいけないわよね……ああ、でもユリランカ~……)
「その花が気に入ったのなら、好きなだけ持っていけ」
シエナが名残惜しそうにユリランカを見ていると、凛と澄み渡るようなイザクの声がし、背後の柱廊から本人が姿を現した。
シエナは後ろめたさから咄嗟にリリーナの後ろへ身を隠してしまう。それが失敗だったと気付いた時には、イザクは表情に影を落としていた。
(陛下の傷ついたような表情、胸が痛んで苦手だわ……)
そう思うなら隠れなければいいのだろうが、先ほどの件が頭をよぎりどうしても上手く接することが出来ない。
「陛下。よろしいのですか? 政務は……」
使用人が声をかけると、イザクは「見送りで五分程度予定がずれるくらいなら問題ない」と言った。
「シエナ、花が好きなのか?」
「……ええ、まあ……」
花が好きというか、魔法薬を調合するのに役立つ植物が好きです。というのが正解だが、リリーナが脇腹を肘で突いてくるので伏せておいた。
「そうか」
イザクは小さく頷くと、ユリランカの花壇へ近寄り、茎へ手を伸ばし掴んだ。そのまま迷いなく手折ろうとするので、シエナは短い悲鳴を上げる。
「ああ、待って!」
シエナがイザクの手首を掴んで止める。
「ユリランカには鋭い棘があるんですよ、素手で手折るなんてとても……ああ、やっぱり刺さっちゃってる……」
イザクの拳を開かせると、剣ダコの出来た固い手のひらにはぽつぽつと棘が刺さってしまっていた。
「すまない。棘が抜けていないユリランカを贈ろう」
「はあ……へ?」
「? 俺が手折ったせいで棘が抜けてユリランカが不格好になってしまったのが嫌だから難しい顔をしているんだろ? すまなかった。綺麗なユリランカを用意させる」
けろりと言ったイザクに、シエナは雷で撃たれたようなショックを受けた。
(――――この王様は……!)
「違います。ユリランカではなく、貴方が怪我をしてしまったから心配して難しい顔をしているんです!」
「俺の心配……? 何でだ」
心底不思議そうに問うてくるイザクに、シエナはめまいを覚えた。
(鈍感……! やっぱりこの王様……国で一番偉い人なのに、人からの愛情をあまり受けていないんだわ……)
だから女性に心配されるという考えに行きつかないのだろう。
「本当に悪かった……。だが、どうか、俺を嫌ったりはしないでくれ。二度と会わないなんて、言うな」
「……嫌ったりなんてしませんよ」
(愛情に飢えているから、自分を拒絶しない相手を求めてる。やっぱり私に求婚したのも、私が好きだからじゃないんでしょうね)
分かってはいたが、あんな美形にプロポーズされたのは初めてだったので、少し残念な気もするシエナ。だがそれ以上に頭を占める想いは……大きな子供に、気に入られてしまったかもしれない、だ。
(さらに厄介なのは、私が陛下の人柄を嫌いじゃないことよ……)
寝不足の頭がずきりと痛む気がしたシエナだった。
登場人物設定の頁にニフ、ロア、オルゲートの絵を追加済みです^^




