part1
雨が降っている。
凛は遮光カーテンの隙間から外の様子をぼんやり眺めていた。プラスチックの青い物干し竿から、ぽたぽたと水滴が落ちていた。
空は厚い雲で覆われていて、水分を含みすぎた布のように重たそうだ。その重みに耐えかねて降りしきる雨は、霧のようだった。
凛は今年30歳になる。二年前、大学時代から付き合ってそのまま結婚した翔太と離婚した。付き合いから入れると9年。離婚の原因はなんてことない。翔太に好きな人ができたからだ。だが、事実を知った時、凛は妙に落ち着いていた。翔太はとても優しく、一途で、いつでも凛を支えてくれた。日向のように暖かく、大きな手で凛の顔をくるみ、鼻をこすり合わせながらキスをした。
とても好きだった。だから結婚した。結婚してからも翔太は変わらなかった。優しく、暖かだった。その翔太に自分ではない、他の女性を見る日がくるなんて、想像してなかった。
いつも残業続きの凛は、その日は珍しく定時で帰宅しようとしていた。春の暖かい風が桜の花弁を舞い散らせる中、凛は翔太を見た。声を掛けようとしたが、隣に女の子が立っている。会社の子だろうか。髪が長く、風に揺れてさらさらと靡いていた。
ふと、桜の花弁が彼女の髪についた。翔太がそれに気付き、そっと手を伸ばした。震えているように見えた。大きな手が、小さな花弁を摘む。女の子がにっこりと微笑んだ。翔太の頬が赤く染まるのがわかる。その時、凛は悟ったのだ。翔太が思いを寄せる相手はもう自分ではないのだと。
家に帰り、お気に入りのコーヒーを飲んだ。人は落ち着きすぎると表情がなくなるのだな、と自覚するほど、凛の顔の筋肉は一切の活動を停止していた。30分程して、玄関からガチャガチャと鍵を回す音がした。ドアの向こうで戸惑っている翔太の様子がわかる。いつも翔太の方が帰ってくるのが早いのだから当然だろう。
ドアが開く。鍵とチェーンを締める音。凛の鼓動が速くなり始めた。短い廊下を軋ませて、翔太が歩いてくる。凛は膝の上で拳を握った。
「凛」
リビングに翔太が入ってきた。少し驚いたような声を背中越しに受け、凛の心臓は1回だけ大きく鳴った。
「驚いたなぁ。今日は君の方が早かったんだね。ご飯は食べたの?」
「えぇ。軽く」
「ちゃんと食べないと。凛は働き始めてから痩せてるんだから。僕も小腹空いてるし、何か食べに行く?それとも下のコンビニで何か買ってこようか?」
翔太はいつも通りだ。いつも通り優しくて、凛はいつも幸せだった。
だからこそ、言わなければ。
「あたしはご飯は大丈夫。ねぇ。少しだけ話したいことがあるの」
翔太は寝室のクローゼットにスーツのジャケットを片していた。ネクタイを緩めながら、「どうしたの?」と言い、凛の横を通り過ぎて、真向かいの椅子に腰を下ろした。
凛はようやく顔をあげ、翔太を見た。少し残っている無精髭。太い眉にくっきりした二重の大きな目。まるでゴールデンレトリバーみたいだ、と凛はいつも笑って言った。
凛は一つ、深呼吸をして、にっこり微笑んだ。
「翔太、別れましょう」