圧縮された契約
「はい、お弁当だよ」
「ありがとうございます、おばあちゃん」
玄関先でお弁当を受け取ると、僕はそれをスクールバッグの中に仕舞いました。
今日のお弁当の中身は何でしょうか。玉子焼きは入っていますかね。お昼が楽しみです。
「優ちゃん、学校までは遠くないかい? なんなら自転車を買ってあげるよ」
自転車……いいかもしれません。
ここから学校までは徒歩で二十五分ほど。でも自転車ならば十分ちょっとで着くのではないでしょうか。通学以外でも自転車は使えますし。
こないだ、何の気なしにこの市の地図を見たのですが、ここから西へ十キロちょっと行ったくらいの位置に大きな川、それに川沿いに長く続くサイクリングロードがあったのです。
直線距離で十キロ程度なので、実際はもっとあると思われます。徒歩だと一時間以上かかってしまうでしょうが、自転車を駆使すればなんてことはありません。
心躍り始めた僕でしたが、おばあちゃんの経済状況を考えると、あまり得策ではないかもしれないことに気付きました。
年金暮らしで、質素倹約を絵に描いたような生活なのです。
お父さんとお母さんが少しでもお金を送ってくれればいいのですが。
あれだけ儲けているのというのに。
どうして。
どうして一円も、おばあちゃんに……。
僕のことはいいです。でもおばあちゃんには、せめておばあちゃんには援助してほしい、です。
でもおばあちゃんはそんなこと気にもしてません。しかもおばあちゃんは何かと僕に良い思いをさせようと本を買ってくれたりします。
本なんか図書室で借りればいいのです。それよりも、自分の服を買ってください、と僕は言いたいです。
……言えませんが。
ニコニコして僕に本を渡すおばあちゃんの顔を見て、そんなこと言えるわけがないのです。
その上自転車なんて。
いけません、そんなこと。
「いえ、それには及びませんよ、おばあちゃん。歩いて十分で行ける距離ですし、先輩たちも歩きなので、今のままのほうが一緒に帰りやすいのです」
僕は言いました。
「そうかい」
おばあちゃんは僕の答えを聞くと、少し残念そうにしてしまいましたが、すぐにまたふんわりと顔をしわしわにして微笑みました。僕はそれを見てほっとしました。
自転車は夏休みになったらアルバイトでもして買いましょう。何せもう僕は高校生なのですから。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい、車に気をつけるんだよ」
こうして、僕はまたいつものように朝を迎えてしまいました。なぜなら、僕が死に損ないだからです。
*
今日は五月三十一日。火曜日です。
早いもので、入学してからもう二ヶ月近く経ちます。
色々あって入学式をばっくれてしまったせいで、僕はクラス内で一時期注目の的になってしまったのですが、今はもう飽きられて一クラスメイトとして溶け込むことに成功、適当にお話する友達も三人ほどできました。とりあえず孤立しないでよかった、と胸をなでおろしました。
――田舎にいた頃のようなことは、もうごめんですからね。
ゴールデンウィークは実家に帰るかどうか迷ったんですが、どうせ家に帰ってもお父さんとお母さんはお仕事なので、おばあちゃんと一緒にのんびりと映画を見たり、本を読み耽っていました。
回想してみてわかったのですが、これといってエンターテイメントを提供できるような出来事は入学式の日を除いてはないですな。
入学式の日が事故と言っても差し支えないほどに凄すぎたせいで、ほかの出来事が霞んでいるだけかもしれませんが。
話題といえば、僕とは全く関係ないのですが、最近この町の高校にお下劣なゲームソフトがばら撒かれるという事件が多発しているそうです。それはラブレターの如く全男子生徒の下駄箱に入れられ、そのディスクを再生してみると、めくるめくニャンニャンワールドが展開するというわけです。
それだけ訊くとなんと羨ましい事件なんだコンチキショーと憤るところなのですが、高校だけでなく小中学校にまで配られているので、問題になってしまったのです。
最近のお子ちゃまはパソコンなんて日常生活におけるトイレのように当たり前の存在ですから、ばら撒かれたPCゲームを再生するなどわけないのです。
けれど僕の高校にはまだそのようなゲームは配られていません。
山越高校にも早く来てくれませんかね。
あ、今僕が言ったことは竜宮下さんたちには内緒ですよ。バレたらしばかれてしまいます。
竜宮下さんといえば、僕は彼女らと同じ文芸部に入部しました。
入学式の日――あの後、竜宮下さんについて行った先は図書室でした。
そこでは城門さん《じょうもん》とハムスターさんこと石踊幟さんが待ち受けていました。
僕はまた尚武屋さんに勝利したことを祝ってハイタッチでも交わすのかと思ったのですが、交わしたのは一つの契約でした。
「じゃあ、これに名前を書こうか」
城門さんは何の説明も解説もなく、一枚の用紙を差し出しました。
それは奇妙な形に折りたたまれていて、名前と学年クラスの記入欄だけ見えるようになっていました。
「あの、これは?」
「書きな」と城門さん。
「書こうぜいっ」と石踊さん。
「書きなさい」と竜宮下さん。
そんな圧縮されたやり取りで、僕はサインしました。
「おめでとう、アンタも今日から文芸部の仲間だ」
城門さんはニヤリと凶暴な笑みを浮かべました。
折りたたまれた用紙を広げてみると、それは入部届けでした。
そんな詐欺まがいのやり取りで、僕は文芸部に入部したのです。
時間軸的に見て、間違いなく僕が新入生の中で一番早く部活に入ったことは間違いありません。
でもまあ、読書は好きなのでいいですけど。
竜宮下さんもいますしね。
え? 竜宮下さん?
はて、どうして僕は竜宮下さんのことを入部の動機に挙げたのでしょうか。
僕は首を捻りつつ、通学路をてくてく歩いて学校に向かいました。




