焼却炉はシェルター
「あそこよっ」
「は、はい」
校舎を回りこむようにして走って、僕たちはようやっと目的地の焼却炉を視界に捉えました。よく考えてみると、僕の目的地は図書室だったよーな気がするのですが、何がどうしてこんなことになっちまったんでしょうね。
「ヒモくん、急ぎなさい。速すぎて残像が見えてしまうぐらい速く動くのよ」
一億倍ぐらい速く動かないと無理です。
しかし次の瞬間、無理だとか言ってる場合ではなくなりました。
「残像が見えるほどほど速くか。それはぜひとも見てみたいな」
「え――」
竜宮下さんがハッと息を呑むのがわかりました。
尚武屋さんがすぐ後ろまで迫ってきていたのです。アメンボ部隊はやられてしまったようです。
それにしても尚武屋さん、学習してますね。これまでのように無闇に叫ぶことをやめてこっそりと、でも着実に僕たちに接近していたらしいです。これは誤算でしたね。ただの熊ゴリラかと思っていたのですが。
「しょ、しょうぶ――」
「観念しろいっ!」
尚武屋さんが竜宮下さんに飛び掛りました。
海パン一丁の筋肉男が黒髪の美少女に襲い掛かるという犯罪的光景に、僕は思わず目を逸らしたくなりましたが、竜宮下さんの動揺を一切見せぬ無表情っぷりに、僕は何かのメッセージを感じ取りました。
瞳が。
竜宮下さんの瞳が、何かを伝えようとしていると、僕はなぜだかわかったのです。
そして彼女の瞳が放つ光がころころと瞬いて、それが暗号として僕の目に送られてきました。
尚武屋さんが竜宮下さんを半ば押し倒すように背後から飛び掛る。
竜宮下さんはその直前、すぐ横を走る僕に向けて、競泳水着をひょいっとパスしました。
僕はそれを受け止めました。
一連の動作は、ほんの一秒程度の出来事だったのですが、僕には全てがノートの隅に描いたパラパラ漫画みたいはっきりと見えました。
「ヒモくん、あとは任せたわ」
竜宮下さんはそのセリフを最後に地面に倒れてしまいました。
「おのれクソチビが――む、なに!?」
「離さないわよ、尚武屋くん」
竜宮下さんは尚武屋さんを抱え込むようにして抑えています。言い換えれば、尚武屋さんと抱き合っています。
美女と野獣とはまさにこのことです。
あまりにショッキングな光景に、僕は泣きそうになっちゃいました。なんと不憫な。
「何泣いてるのヒモくん。今のうちにその水着を焼却炉に。水着のおっぱいのところにマッチを入れといたわ」
「おのれ、そういうことか! そうはさせんぞ!」
尚武屋さんががむしゃらに暴れております。竜宮下さんはそれを必至に抑えて――言い換えれば強く抱擁しているのですが、そう長くは持ちそうにありません。
「お願いヒモくん、わたしを自由にして」
僕の耳に、竜宮下さんのその一言が水滴のようにポツンと落っこちてきました。それは湖面に広がる波紋のように体全体に広がっていきます。
焼却炉はもうすぐそこ。蓋は開いています。
火は、ついてません。
火をつけて燃やすにはいささか時間がかかりそうです。
――まあ、どうせ死ぬのですから。
良い機会です。
僕が死んで、竜宮下さんが実際であれ精神的であれ自由になって、それでさらに小説家にでもなれば、僕の死もそれなりに役に立つってもんですね。
おばあちゃんをこの世に残してしまうのがとても心残りではありますが……でも。
僕は、うむ、と気合を入れました。
ユウキくん、僕もそっちに行きますから。
僕は焼却炉目掛けて走り、そのまま突っ込んでいきました。
後ろから「きゃっ」という短い悲鳴と「よっしゃー!」という尚武屋さんの太い声が聞こえてきました。竜宮下さんの決死の抱え込みも、外されてしまったようです。
でもそれとほぼ同時に、僕は――
「き、貴様、何を――」
尚武屋さんの震える声が耳に流れてきました。お化けを見た子供のように怯えている感じでした。
まあ、それはそうですよね。
だって、僕は自分の体ごと焼却炉に入っていったのですから。
体の小さい僕なら、狭い焼却炉の入り口にもぎりぎり入ることが出来ます。ですが体がバカでかい尚武屋さんでは到底無理な話です。僕は焼却炉という名のシェルターに入ったわけなのです。
焼却炉の中は意外にもひんやりと冷たい空気が漂っていて、ぷんと焦げたトーストのような臭いが充満していました。
蓋が開いているので外の光は入ってきますが、それでも薄暗いです。既に雑紙や木片なんかが入っていて、火が回るのはけっこう早そうです。
競泳水着のおっぱいの位置に手を入れると、たしかにマッチ箱が包まれるようにして収納されてました。幸せなマッチ箱ですな。箱には『喫茶無菌室』と書いてあります。
さて、火をつけますか。
何もかも灰にしてしまいましょう。
――お?
「だりゃあああああああああああああああああぁぁぁぁ!」
な、なんでしょう。
「くらえええええええええええええええええええぇぇぇっ!」
くらえ? 何をですか?
まるで必殺技をぶちかます直前のセリフみたいですね。
「尻鉄球っ!!」
必殺技でした。
おそらく、竜宮下さんがついさっきベッドの下で仰っていた、尚武屋さんの鉄尻から放たれるという破壊的且つ変態的な――解説中断です。
瞬く間に、周囲の風景が一変しちゃったので。
自分以外の何もかもが吹き飛び、轟音と共に彼方へと飛ばされてしまったのです。
薄暗かった世界が瞬時に明るくなり、気がつくと僕は地面に転がっておりました。
辺りには紙くずやらなんやら、ゴミが散乱しております。
体を起こし、周りを見渡し、僕はぎょっとしました。
焼却炉がぶっ飛んでいたのです。まるで爆風に吹き飛ばされてしまったかのように、本体の半分以上が消し飛んでいたのであります。
「貴様……どういうつもりだ」
「え?」
急に影ったので何かと思ったら、尚武屋さんの大きな体が目の前で僕を見下ろしていました。
「何がですか?」
「どういうつもりだと訊いている。あのままじゃ貴様は……」
「死んでいたでしょうね」
「なっ――」
尚武屋さんは目を大きく見開き、拳を握ったり開いたりしています。
「なぜそこまでする。貴様は今日入学したばかりで、竜宮下とはほとんど面識もなかっただろう。それとも幼馴染なのか?」
「いいえ、残念ですがそんな胸躍る設定はないです。今日が初対面でした」
「だったらなぜ――」
「僕に、何もないからじゃないですかねぇ」
「何もって……」
「ヒモくーん」
尚武屋さんが言葉を失って呆然としているところへ、竜宮下さんが駆けつけました。
「あら、また派手にやったわね、尚武屋くん。ヒモくんは大丈夫? 脳みそが耳から垂れてたりしない?」
「大丈夫です。耳カスは多い体質ですが、脳みそは垂れてません。竜宮下さんは?」
「わたしも大丈夫。尚武屋くんに思い切り頭突きされてちょっとの間気絶してたけど」
見れば竜宮下さんのおでこが、赤みを帯びてぷっくりと腫れてしまっているじゃないですか。でもそれが妙にかわゆくて、僕はニヤニヤしてしまいました。
「ヒモくん、何ニヤニヤしているの?」
「い、いえ別に」
「そう、ならいいけど。しかしどうしたものかしらね、わたしはまた水泳部に戻らなければならないのかしら」
竜宮下さんは「ふぅ」と深い溜息をつきました。
……なんでしょう。この胸が重くなるような感覚は。
――悔しい。
そうです。僕は悔しいのです。
竜宮下さんを自由にしてあげることができなかったのが、悔しいのです。こんな感覚は初めてです。
「いや、それはもう、いい」
唐突に、尚武屋さんは言いました。僕のほうも竜宮下さんのほうも見ずに。
「え? もういいですって?」
竜宮下さんはびっくりです。僕もびっくりです。
尚武屋さんが力無く首を振り「もういいんだ」と念を押すようにまた言いました。
「どういうことかしら。あれだけなりふり構わず追ってきたあなたが、もういいですって? 罠?」
「いいや、違う。この俺の負けだ。その競泳水着は貴様らにくれてやる。竜宮下の退部も認める」
「信じられない」
「こいつには」
尚武屋さんが僕を指差しました。僕?
「こいつには、敵わない」
「何を言っているの尚武屋くん」
尚武屋さんは竜宮下さんの問いかけを無視して、僕たちに背中を向けて、校舎のほうへ歩いて行ってしまいました。
その背中は女子に振られてしょんぼりする男子中学生みたいに小さく見えました。
「ヒモくんに敵わない? どういうことかしら。わたしの見立てでは、きみの戦闘力は2だと思うのだけれど」
「僕は1だと思ってました」
それにしても……本当にどういうことなのでしょうか。
どう前向きに考えても、僕が尚武屋さんに敵うはずがありません。仮に僕が彼に渾身の鉄拳をお見舞いしたとしても、彼の鋼の筋肉相手では僕の鉄拳が砕け散ることでしょう。
「まあ、いいわ。結果よければ全て良し」
竜宮下さんは満足そうに頷きました。
すると、右手側にある体育館から、何やらマイクを通した声が漏れ聞こえてきました。おじいさんっぽいしわがれた声音です。
「あら、校長先生がマイクで独り言を言っているわ。もうお歳なのね。お気の毒に」
「いえ、これはおそらく、入学式です」
いけません。
どうやら僕は入学式をばっくれてしまったようです。入学式のことなど忘却の彼方でした。
「ああ、なるほど。そういえばそうだったわね。今朝、城門先輩がウブな新入生を強制連行して文芸部に入部させようと手ぐすね引いていたわ」
そしてなぜか竜宮下さんはちらりと僕を一瞥しました。
はて?
「行くわよヒモくん」
竜宮下さんはすたすたと、体育館とは逆の方向、校舎のほうへと向かい始めました。僕は一瞬悩みましたが、途中から入学式に参加するのも目立ちそうで嫌だったので、竜宮下さんの後ろについていきました。
「あ、そういえば、この競泳水着はどうしましょうか。結局燃やせなかったのですが」
「ヒモくんにあげる」
「ほえ?」
「好きにしなさい。匂いをかぐなり実際に着てみるなり。スクール水着とはまた違った質感よ。ヒモくんにとっては、新天地開拓、と言ったところかしら」
なんてこっちゃ。