『天才』という名のいらぬオプション
僕と竜宮下さんは校舎二階の廊下を突っ走っております。竜宮下さんは僕の手を引いて、その金太郎飴の如く細い体からは想像も出来ないほどの速さで疾走してます。
僕はというと、嫌いな散歩コースを無理やり引きずられている犬のような有様で、明らかに竜宮下さん本来のスピードを失速させてしまっています。
「あ、あの、なぜ僕まで逃げているのでしょうか?」
「なぜでしょうね。正直言うと、自分でもどうしてきみを連れてきたのかよくわからないわ。まあ、いざとなったら人間の盾として役に立って頂戴」
なんてこっちゃ。
「ヒモくん、もっと速く走りなさい」
「ひ、ヒモ? 僕のことですか?」
「きみ以外に誰がいるというの」
なんというかわゆくて屈辱的なあだ名なんでしょう!
「竜宮下あああああああああぁぁぁぁ!」
背後から尚武屋さんの怒声が迫ってきました。
「やはり尚武屋くん相手では十秒も食い止められなかったみたいね」
「あの、城門さんたちは無事なのですか?」
「それは大丈夫。あの二人はそう簡単にやられはしないわ。今頃わたしたちの援護をするためにあちこちに手配していることでしょう」
「はぁ」
なんだかよくわかりませんが、とにかく今は迫り来る熊ゴリラから逃げなければいけません。
――と、竜宮下さんのほうから携帯の着信音が聞こえてきました。「もしもし、石踊さん? ええ、そうよ。二階の廊下を逃走中、援護よろしく」
竜宮下さんは電話を切り、後ろを振り返りました。僕も釣られて振り返ると、僕たちが通り過ぎた教室のドアからぞくぞくとロードバイクにまたがった方々が飛び出してきて、そのまま尚武屋さんに向けて特攻を仕掛けました。
「おのれええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっ!」
ゴトゴトガツガツと激しい衝突音、それに尚武屋さんの絶叫が廊下に響き渡りました。
「これで少しは時間稼ぎになるわ」
竜宮下さんは涼しいお顔で言いました。結構走ったと思うのですが、彼女は息一つ乱れておりません。
僕たちは尚武屋さんがロードバイクと一緒に肉団子状態で転がっているのを尻目に、すたこらさっさと階段で一階に下りて、下駄箱から外に出ようとしました。
しかしそこで、竜宮下さんが急ブレーキをかけました。
そのせいで僕は彼女の背中に顔から突っ込んでしまいましたが、竜宮下さんはびくともしません。
「まずいわね、水泳部の連中が配置されているわ。これでは外に出られない」
見ればなるほど、たしかに尚武屋さんほどではないですが屈強な男子五人が下駄箱を出た先でうろうろしております。
竜宮下さんは顎に手を当てて思索に耽っているご様子。
そのとき、階上からペタペタと素足でリノリウムの床を踏む音が聞こえてきました。どう考えても海パンゴリラこと尚武屋さんです。
「いけない、ひとまずあそこに隠れましょう」
*
竜宮下さんが仰った「あそこ」とは下駄箱のすぐ近くにある保健室、のベッドの下でした。
なぜベッドの下なのかと問うと、竜宮下さんは平然と、
「わたしはモデル級にスマートできみは小学生級のチビだから、ベッドの下でも入れると思って」
と言ってのけました。
悲しいことに、僕の体は易々とベッドの下の狭い空間に納まってしまいました。
すぐ隣には体をくっつけて竜宮下さんが縮こまっております。間近で見ると、彼女のお顔は上手く焼けたホットケーキの表面みたいにふわふわしてそうで、どことなく甘い香りがします。
竜宮下さんを見ていると、なんだか心臓が内側からハンマーで殴られているような痛覚が僕を苦しめてきます。走ってきたせいかと思ったのですが、もう息は整っていますので原因は別にあるようです。でも思い当たることが一つも浮かびません。ふむー。
「初めまして、わたしは竜宮下深海、二年生」
唐突に竜宮下さんが自己紹介を始めました。
なぜこのタイミングで?
と、僕は首を捻ってしまいましたが、竜宮下さんはそんなこと塵ほども気にしていらっしゃらないようです。既に知っていることだったのですが、僕も「初めまして」と返しておきました。
「趣味は読書と表立って他人をけなすこと、好きな食べ物は駄菓子。嫌いなものは水泳」
「あれ、先ほどの会話から察するに、竜宮下さんは水泳部なのでは? 退部を希望されているようですけど」
「ええ、そうよ。自分でもよくわからないのだけど、どうもわたしは水泳の天才らしいの」
竜宮下さんは悪びれず、平板な口調で言いました。
「天才、ですか」
「周りの人間はわたしのことを『期待の星』『彗星の如く現れた天才』なんて持ち上げてくるのよ。けれどわたしが水泳を拒否すると『勿体無い』『才能の持ち腐れ』だなんて怒って泳ぐことを強制してくる。強制からは何も生まれないというのに」
「それはきっと、竜宮下さんに才能があるからですよ。羨ましいです。僕にはそういうの、なんにもないですから」
そうです、僕にはびっくりするぐらい何もないのです。とっとと走馬灯を見て人生を振り返って死んでしまうのが一番です。
「何もないほうが身軽でいいわ。あとから自由にオプションをくっつければいいのだから、むしろワクワクと心躍るわね。わたしは水泳の才能なんていういらぬオプションが標準装備されていたから、とても困ったわ。迷惑な才能でしかない。わたしがやりたいのは水泳ではないし」
「では何を?」
「小説家になりたいの」
「それで文芸部に」
「ええ。心置きなく本を読んで、心置きなく小説を書く。理想の学校生活だわ。去年は水泳部に無理やり引っ張られてしまったけど、今年はそうはいかない。そのために、わたしは三ヶ月前にわざと骨折したの」
「わざと、ですか」
「自由を手に入るためには、自分の中の才能を殺すしかなかったのよ。痛かったのは言うまでもないわ。でも、それでわたしは躊躇なく退部届けを顧問の先生に提出できた。まだ受理されてないのが腹立たしいけど。今じゃこのとおり脚も完治しちゃってるし」
竜宮下さんはスカートからのびる細い脚をパンパンと叩きました。
「後遺症が残って水泳なんてできないと言い張っているのだけど、あの筋肉男が納得しなくて」
「海パン男さんですね」
「そう、水泳部の部員、尚武屋勝男。私と同じ学年で、今年度からは部長になったようね。女子水泳部のマネジメントも一手に管理しているから、女子だろうと男子だろうと泳ぎの速い生徒は誰でもいいから引きずり込みたいんでしょう。はっきり言ってしまうと、わたしの退部届けが受理されないのは、尚武屋くんがわたしの退部に強行に反対しているからなの」
「それはまた厄介ですね」
「厄介極まりないわ」
「でもわからないのはその競泳水着なんですが……」
僕は竜宮下さんが熊のぬいぐるみを抱くようにして持っている競泳水着に目をやりました。
「それは結局何なのですか?」
「これは水泳部の宝、部宝と呼ばれているの。わたしの着た競泳水着を崇めれば、泳ぎが速くなるだろうっていうのが、表向きの姿勢」
「裏では?」
「変態的な所業に使われているのでしょうね」
「なんてこっちゃ」
「わたしはね、これを体育館裏の焼却炉で燃やすの。燃やして何かが解決するわけじゃないけど、それでも、ね」
竜宮下さんは、フッと小さく、本当にわずかではありますが、微笑みました。諦観を滲ませているそのお顔は、微笑んでいるのにとても悲しそうです。
氷の女王と形容してしまいたくなるほどに無表情で冷たい目をした女性で、こうしている今も南極の氷と隣り合わせでいるような感じだからでしょうか。
その笑みは小さな温かみしかないのにやけに際立ち、僕の中に強く残りました。
このお方は、強い。
まるでユウキくんのように。
僕はそう思いました。
諦めることは、強さなのです。
「なんだかしんみりしてしまったわね。ヒモくん、何か心躍る話題はないかしら」
竜宮下さんが言いました。
深海に沈みゆく沈没船のようにテンションが下がりまくっていた僕は、そこでどうにか浮上しました。
「心躍る話ですか……そういえば、城門さんから窺ったのですが、竜宮下さんも鳥山明がお好きなようですね」
「わたしも、ということは、きみも?」
「ええ」
「あの七つのボールを集めるお話をどう思う?」
「人生のバイブルです」
「悪くない答えね」
竜宮下さんは小さくではありますが「ふふっ」と今度は楽しそうに笑いました。
その「ふふっ」が吐息となって僕の耳に入り込んできて、僕は今まで生きてきた中で最強の刺激を感じました。お子ちゃまの僕には強すぎる魅惑の刺激です。体の力がふにゃふにゃととろけてしまいました。
「ヒモくん、物凄い気を感じるわ。尚武屋くんよ」
「そのようですね」
竜宮下さん、早くもごっこ遊びに突入です。
「尚武屋くんのお尻は凶器よ。十分に注意しなさい」
「お尻ですか」
「そうよ。『山越高校の鉄尻』の異名を取るほどに硬いお尻なの。あのお尻から繰り出される技の破壊力ときたら、地球だって木っ端微塵にしてしまうほどなの」
ごっこ遊びですよね?
「あら、彼の気がこちらに近づいてきているわ。ほら、もうすぐそこ」
「たしかに、物凄く巨大な気が――」
――と、ガラッとドアが開けられました。
「竜宮下あああああぁぁぁぁ! いるかああああぁぁぁぁ!」
尚武屋さんでした。
なんてこっちゃ。
「ぺぷしっ」
尚武屋さんが叫んだ直後、竜宮下さんがキュートなくしゃみをかましました。
重ね重ね、なんてこっちゃ。