走馬灯を見たいがために
校舎裏の非常階段を上り屋上にやって来ると、中学三年生のときのことを思い出さずにはいられませんでした。
雲のない星空に暢気そうに浮かぶ月。
そして屋上。
中学三年生の夏休み最後の日を、ほぼ再現できています。僕がこんな時間に溝口さんを呼び出したのは、このためです。
どうせ死ぬなら、できるだけあの時と似たシチュエーションにしたかったのです。でもまさかここまであの時と同じような雰囲気になるとは……。
まあ、ユウキくんがいないので、完璧に再現とはいきませんが。
屋上はとても風が強く、僕の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回してきます。目も開けにくいほどです。遮るものなど何もない、ただコンクリートの地面が広がるだけです。どういう目的があってこんな場所を作ったのでしょうかね。
僕は柵を乗り越えました。
もう一歩踏み出せば、向こう側へ行くことができるでしょう。
グランドには豆粒のように小さい溝口さんが、何か声をあげているようですが、風の音で何も聞こえてきません。
――さて、と。
おばあちゃん。
ユウキくん。
僕には、何か良いことがあったのでしょうか。
あると、いいのですが。
僕は一歩を踏み出しました。
体が吸い込まれるような感覚が全身に走ったかと思うと、下から上へ立ち上る風がぶつかってきました。空を飛ぶというより、空を漂うような感覚を一瞬だけ感じました。とても気持ちよくて、ふかふかのベッドに身を投げたようでした。
でもそれも一瞬のこと。僕が身を投げたのはベッドではなく、遥か真下の大地です。
僕の体はこの惑星の重力に逆らうことなく、
数ある身投げの例に漏れることもなく、
落ちる、はずでした。
落ちる落ちる。止まる。
――止まる?
落下は一瞬で停止してしまったのです。
視界が真っ暗になっていたのでどうしたのかと思ったのですが、なんてことはありません。僕が目を瞑っていたのでした。目を開けてみると、僕は空中で止まっていました。
こりゃいったいどういうことだ空を飛べるようになっちゃったのか、とにわかにテンパる僕でしたが、右腕が上へ伸びきっているので視線をそっちにやると、氷の女王様が無表情に僕の腕を掴んでいました。
「竜宮下さん!?」
「こんばんは」
実に涼しげな挨拶です。
「あの、どうして……」
「どうして? 今どうしてと言ったわね、きみ」
「え、ええ」
竜宮下さん、ご機嫌斜めみたいです。
「それはもちろん、主人公たるわたしが登場して名推理を披露、物語をめでたしめでたしと締めくくるために決まっているでしょうに」
「ヒロインだったのでは?」
「ヒモくん」
「あい」
竜宮下さん僕を無視して続けます。
「きみ、どこまでわたしの出番を減らす気なのかしら。石踊さんがわたしに連絡してこなければ、わたしの出番なんてヒモくんのお葬式で保険金をがめることに成功してニヤける保険金殺人犯で終わっていたじゃない」
「僕に保険をかけたのですか!?」
「冗談よ。それに自殺じゃ保険金って降りないのではなかったかしら。あら、どうだったかしらね。ちょっと今後のために調べておくわ」
今後保険金殺人を企てる予定があるかのように竜宮下さんは仰いました。
「あの、どうしてここに僕がいるとわかったのですか?」
「石踊さんよ」
あちゃー。
まあ情報の出所なんて石踊さん以外には考えられませんでしたが。口止めしといたんですがねぇ。
「ヒモくんが何かやらかすらしいって言っていたわ。まったく、やれやれだわ、どうしてわたしを呼んでくれないの? 名推理を披露しようと思っていたのに」
「もう片はつきました。ゲームばら撒き犯の犯人は溝口さんだったのです」
「なんですって!?」
竜宮下さんが驚愕の表情を浮かべました。その拍子に僕の腕を掴む力が一瞬抜けて、僕は再び落下しそうになりましたが、彼女はすぐにまたムギュと手首がもげそうなほどのパワーでもって落下を阻止しました。
「え、あの、竜宮下さんはいったい何を推理したのですか?」
「誰が工藤に手紙を出したのか、それをわたしたちは調査してたんじゃないの。いい? ヒモくん。犯人は溝口くん、それに尚武屋くんだったの。二人は共犯だったのよ」
「しょ、尚武屋さんも?」
なんてこっちゃ。
これにはさすがの僕も驚きを隠せませんでした。
でもたしかに溝口さんと尚武屋さんは繋がりがありました。
屋上へと続く階段の踊り場で話していた彼らを、僕と竜宮下さんは目撃しています。けれどあの二人は口論していたので、共犯だなんて発想は塵ほども浮かんできやしませんでした。
「尚武屋くんを尋問したら白状したわ」
あの尚武屋さんを尋問するとは。どこまで恐れを知らないのでしょうか、竜宮下さん。
「尚武屋くんと溝口くんも石踊さんのことが好きだったらしいの。しかし見ての通り石踊さんは工藤に夢中だった。どうにかして工藤を蹴落とそうと、彼らは手を組んだ。工藤を蹴落とそうと編み出された作戦が、工藤にわたしの競泳水着を盗ませてその情報を学内に広め、最後にとっ捕まえて工藤を晒し者にしようというもの。そうすればいくら石踊さんでもそんな工藤のことなんか嫌いになると考えたそうよ」
「それは読みが甘いですね」
「同感ね。石踊さんがその程度のことで工藤を嫌いになったりするわけがないわ。全裸で小学生女子に襲いかかったとしても、嫌いにはならないでしょうね」
それはどうでしょう、と心の中で首を傾げる僕です。
竜宮下さんは続けます。
「まず溝口くんがマスターキーで暗室に入り手紙を置く。工藤がそれを見てまんまと罠にはまる。それから入学式の日、尚武屋くんはわざと部宝であるわたしの競泳水着を盗みやすくし、工藤が競泳水着を盗んで逃走中であることを新聞部にリーク、新聞部はすぐに緊急メルマガを配信した。尚武屋くんと溝口くんが手を組んだからこそ実行できた作戦ね」
「どうして入学式の日だったんでしょうか。別にほかの日でも構わないような気がするのですが」
「春休み中は毎日水泳部の活動があって、入学式後になるとやはり同じように活動が開始されるわけ。それ以外のときもあのロッカー室は部員たちの溜まり場にもなっているのよ。普通の日ではとてもじゃないけど侵入できないし、尚武屋くんもわざと部宝を盗みやすくすることもできなかったの。そんなことをすれば部員たちに怪しまれるからね。でも入学式の日は唯一部活がない日で、部員たちもいなかったの。工藤なら絶対にその隙を狙うと尚武屋くんは踏んだのよ」
「なるほど。そこは正しい判断でしたね。山越高校の最長老様の考えることを見事に先読みされております」
「ただ彼らの誤算はきみだったのよ。ヒモくん」
「僕、ですか?」
「そう。まさか工藤がヒモくんに競泳水着を託すとは思わなかったのよ。しかも、きみがよりにもよってわたしのところへ行くなど、誰が予想できた?」
まあ行ったというとか、捕獲されたのですが。
「では僕が暗室の前で溝口さんを見かけたとき、いったい彼は何をしようとしていたのでしょうか。手紙を持っていたようでしたけど」
「それはね、工藤をまた似たような手でハメようとしたのよ。石踊さんと工藤さんが付き合っているのが我慢ならなかったそうよ。ただその時はあくまでも溝口単独の行動よ。尚武屋くんは関わっていない。彼は反対して止めていたぐらいなのよ。もう諦めろってね。でも溝口くんは諦めなかった。そのことで口論となっていたのよ、屋上の踊り場でね」
「ほえー」
なんだか色々なことが一本の糸で繋がったような感じですね。
しょせん、僕が推理したことなど全体の半分といったところでした。
「ふふふ、明かされた新事実に驚きを隠せないようね、ヒモくん」
「まったくです。ところで竜宮下さん」
「何かしら」
「手、疲れませんか」
「今にも千切れそうだわ」
そうなのです。
竜宮下さんは僕の腕をぷらぷらとさせながら新事実とやらを語っていたのです。
風はこれでもかというぐらいに僕たちをなぶり、竜宮下さんの黒髪はまるで暗幕のように広がり、僕の体は風鈴みたいに揺れております。
「あの、もう、手を離しちゃってください。このままでは竜宮下さんまで落ちてしまいます」
「ユウキくん、だったかしら」
竜宮下さんはまたも僕を無視して言いました。
基本的に人の話を聞くお方ではありません。
でもいつぞや――たしか『喫茶無菌室』で竜宮下さんに面白い話を要求された時に僕が話したユウキくんとのエピソードはしっかりと覚えているようですね。いったい話を聞いているのかいないのか、どちらなのでしょうか。
「彼の後を追うために死ぬの?」
「そうです」
「おばあちゃんも亡くなったそうね。それも理由に入るのかしら?」
「入ります」
「ふむ」
竜宮下さんは無表情のまま目を瞑り、何かを考えているのかしばらく黙ったままでした。けれど、彼女の腕が小刻みに震え始めています。力が、そろそろ尽きるのです。
早く、手を――
竜宮下さんが目を開きました。闇と言っても言い足りないほどの黒い瞳が僕を見つめています。
「わたしには、きみがどうしてそこまで死にたがるのか、まだわからない。だってヒモくんは中学三年生のとき、ユウキくんと一緒に飛び降りようとした時点で、死にたいと思っていたんだもの。それはなぜ?」
「――走馬灯を、見てみたいんです」
「走馬灯?」
「これまで生きてきた十六年間、僕には何もなかったんです。でも走馬灯を見ることができれば、それまでの人生で、僕なんかにも何か素敵なことがあったっていう発見ができるんじゃないのかなと、思うんです」
「なるほどね」
僕は見逃しませんでした。
竜宮下さんが不敵に微笑むのを。
そういうお顔の竜宮下さんは嫌いじゃないのですが、というかむしろ好きなのですが、その後にはいつも何がしかとんでもないことをなさるものでして――
「じゃあ、見てみるといいわ」
「え――」
そして竜宮下さんは、手を離しました。
あっさりと。
手の平についた砂を払うかのように。
ぱっ、と。
「ちなみに、わたしの経験から言わせてもらうと――」
落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる――
「飛び降りても、走馬灯は見えなかったわ」
た、たしかに――
「みえなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぃ――」
こんばんは、地面に吸い込まれていく僕です。
そしてさようなら、もう間もなく死ぬ僕です。
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腕に尚武屋さんの尻鉄球がヒットしたような物凄い衝撃を感じて、僕はハッと目を開けました。
落ちて、ません。
焼肉のお肉のように、僕は鉄板みたいなところにごろりと転がっているようです。背中の感触がとても冷たいです。首を捻って右横を見てみると校舎の二階……あれは……図書室です。図書室の窓の近くを、僕は……僕はなんでしょう?
浮いている?
ほえ?
体を動かそうにも、右腕、それに右足に激痛が走って立ち上がることすらできません。
「よう、藤紐」
いかつい顔をした上半身裸の男が僕の顔を上から覗き込みました。よく見れば上半身だけでなく下半身もほぼ裸でした。海パン一丁に白い水泳帽、膨れ上がり過ぎた筋肉。
「あ、犯人」
尚武屋さんでした。
「ごほごほっ、イタイ話はひとまず置いといてだな」
「いえいえ、置いておけません。まさか尚武屋さんまでもが石踊さんに好意を寄せているなんて、僕がどれほど驚いたと思っているのですか。自分の部屋で蛾を見つけた時くらい驚きましたよ」
「あまり驚いていないようだな。――ん、お前、腕が妙な方向へひん曲がっているな」
「ありゃ」
「しかも脚も」
なんてこっちゃあたたたたたたっ。
「右半身から落ちたせいだな」
「しょ、尚武屋さん」
「無理するな。貴様、骨折しちまってるぞ」
「わかってます。それより、ここはどこですか。僕は今どこに……」
「まあ待て。とりあえず一度浮上して竜宮下を乗せないといかん」
「浮上?」
背中から浮遊感が伝わってきました。僕が寝ている場所が、まるでエレベーターのように上方へと浮上しているようです。
いつまでも尚武屋さんの筋肉を見ていてもつまらないので、横目で景色を見てみると図書室がどんどん視界の下方に消えていき三階の教室へ、さらにそこも下に沈み、屋上へ――
「尚武屋くん、遅い」
竜宮下さんお馴染みの無感動ボイスが耳に入ってきました。
「すまん」
「口の聞き方が間違っているわ」
「も、申し訳、ございません」
「それでよし」
トン、とこちらに飛び移ったような音が聞こえたと思ったら、尚武屋さんを押しのけて竜宮下さんが僕の顔を覗き込みました。
「どうやら生きているみたいね」
「あの、どういうことですか?」
「わたしの水着を利用した罰よ。尚武屋くんは卒業するまでわたしと奴隷契約を結んだの」
「いえ、僕が訊きたいのはそういうことではなくてですね……」
「わかっているわ」
竜宮下さんは面倒臭そうに手を振りました。「まだわからないの? ヒモくん。ここは特爆の屋根の上よ」
「特爆! ……ありゃ、でもパンタグラフが見当たりませんね。この前はついていたのですが」
「邪魔だから取っ払ってもらったの。特爆にはもうあんなもの必要ないし。それに取っ払っておいて正解だったわ。ヒモくんを受け止めるのにあれがあっては、きみは今頃串刺しみたいになっていたわよ」
なんてこっちゃ。
「特爆、完成したんですね」
「ええ、ヒモくんが休んでる間に鉄研の連中がね。この通り空も飛べるようになったわ」
竜宮下さんは僕の頬に手を当てました。
氷の女王様の手は、とても暖かかったです。
「さてと、じゃあ行くわよ」
「どこへですか?」
「城門病院。本当はこのまま月を背景に飛んで、某宇宙人を籠に乗せた自転車の少年みたいに終わろうと思ったけど」
竜宮下さんが僕の腕と脚に視線を走らせ、大仰に溜息をつきました。
「ヒモくんの腕と脚がそれを許してくれそうにないわね」
「そ、そーですね」
あたたたた。




