さて、死にに行きますか
家に帰ると、おばあちゃんが死んでいました。
いつもだったら引き戸を開けるガラガラという音が鳴るやいなや、ぱたぱたと少し腰を曲げて玄関に来てくれるおばあちゃんが来なかったので、おかしいと思ったのを覚えています。
家の中は音という概念を全て取り去ってしまったかのように静かで、梅雨のじめじめした空気がいつにも増してねっとりと肌にまとわりつきました。
おばあちゃんは座布団を枕にして、横になって、眠るように死んでいました。
おばあちゃんは毎日、午後三時ぐらいにお昼寝をしていると以前言っていました。たぶん、お昼寝する直前までは生きていたのだと思われます。程なくして眠りの世界へと行き、
さらにその向こう側へ行ったのです。
ユウキくんがいるところと、同じ場所へ。
それからの三日間はあっという間でした。
救急車を呼んだところまでは覚えていますが、あとの記憶は曖昧なのです。というか、無力でした。
いつの間にか病院にいて。
いつの間にかお父さんとお母さんがいて。
いつの間にかおばあちゃんのお葬式が始まり。
いつの間にかおばあちゃんは灰になっていました。
そして、
「優佑、しばらくここに一人で住むことになるが、大丈夫だな?」
と、いつの間にかお父さんにそう訊かれていました。
僕はこくりと頷きました。
お父さんとお母さんはお仕事で忙しいらしく、お葬式が終わるとすぐに田舎へ戻っていきました。
遺影の中のお婆ちゃんは、ニコリと微笑んでいました。
*
学校を休んで三日目。
僕は朝からご飯も食べずに、ぼんやりと縁側に腰掛けて庭を眺めています。
庭には洗濯物が干されていない物干し竿、その向こう側にはアジサイの花が咲いています。夕方の光が庭一面をオレンジ色に染め、何もかもが焼き尽くされているようです。
今までほとんど庭を意識したことなどなかったのですが、こうやってじっくりと眺めてみると、気分が落ち着くものだとわかりました。
日がな一日縁側で読書というのも、一度はやっておけばよかったなぁと後悔する僕です。
でも、ここで本を読むことは、もうないでしょう。庭を見ていると、嫌でもおばあちゃんの不在を意識してしまうからです。
庭だけじゃありません。
台所を見れば、料理をするおばあちゃんの姿が見当たりません。とんとんとん、とまな板と包丁が触れるあの音が聞こえてきません。
いつもご飯を食べていた畳の部屋もがらんとして、おばあちゃんがいなくなったことを無言で語っています。何も置かれていない卓袱台は、いったい何のためにあるのでしょうか。
卓袱台から柱時計に視線を移すと、柱時計が時を刻むのをやめていました。僕はまったく知らなかったのですが、この柱時計はネジ巻き式で、僕の知らないところでおばあちゃんがいつもネジを巻いていたようなのです。
ですが、そのネジがどこにあるのかわかりません。柱時計は二時で止まっています。午前なのか午後なのかも判然としません。
あの、ぼーんぼーん、という音はいつの間にか聞こえなくなっていたのです。
縁側から玄関のほうに目を向けると、いるはずのない僕とお弁当を渡してくれるおばあちゃんの姿が浮かんでくるようでした。けれど、あくまでも浮かんでくるのは頭の中だけで、実際には引き戸と踏み石があるだけでした。
――鎖。
この世と僕とを繋ぐ鎖は、切れてどこかへ行ってしまったのです。
もう、いいですね。
とっとと死んで――いや、まだやることがありました。
僕はゆっくりと腰を上げて、携帯電話の電源を入れました。やたらと震えっぱなしだったので、ずっと切っていたのです。
電源を入れた途端、メールが八百通近くも一気にやって来て、びっくりしました。城門さんや石踊さん、それに竜宮下さんからのメールでした。というか、ほとんど竜宮下さんからのメールでした。
でも、ごめんなさい。竜宮下さん。
僕が用のあるお方は、石踊さんなのです。
石踊さんに電話すると「どうしてたの学校はやってるよ廃校してないよ」とまくし立てられ少し困りました。
さらに用件を話すと「どうしてなんで何それどゆこと?」と疑問のラッシュに晒されて参りそうになりましたが、辛抱強く説得を続けどうにか彼の連絡先を教えてもらえました。
最後に「このことはどうかご内密に」と付け加え、電話を切りました。
それから今度は彼に電話をし、僕の推理を披露しました。彼が電話の向こうで息を呑むのが伝わってきました。時間と待ち合わせ場所を言って、僕は返事も待たずに電話を切りました。まず間違いなく彼は来てくれるからです。
来ないはずありません。
それから僕は夜になるまでずっと縁側でぼんやりとしていました。
不思議なもので、夕方と夜の境目がわかりませんでした。ずっと空を眺めていたというのに、気がついたら夕方から夜に変わっていたのです。
変化とは、変化した後に初めて認識できるものなのかもしれません。
僕は、何か変化したのでしょうか。
僕は自分の手の平を見てみますが、そこには弱々しい小さな手が五指をうにうに動かしているだけでした。変化は見当たりません。
あるいは、僕が気付いていないだけなのかもしれませんが。
まあ、どうせ死ぬのですから。
関係ないですね。
僕は立ち上がりました。
「さて、死にに行きますか」




