カマキリの影
翌日、つまりテニス部の山田さんの証言により神田さんのアリバイが確固たるものとなってから二日後、土日を挟んで六月二十七日、月曜日。
僕と竜宮下さんは『喫茶無菌室』のカウンター席に並んで座り、コーヒーを啜りながら途方に暮れていました。
「二日間の休みで、何か思いついたことはあるかしら?」
竜宮下さんは僕に訊きました。
「いえ、残念ながら何も」
一番疑わしかった神田さんのアリバイが証明されてしまっては、どうにもなりません。まあ二日間の休みでちゃんと考えたのかと言えば、苦笑を禁じえないのですが。
一昨日はそれなりにこれまでの情報を整理して推理したりもしましたが、昨日は公園で尚武屋さんや石踊さんと会った後は、結局というか案の定、ずっと本の世界にどっぷりでしたから。
でも竜宮下さんも僕と同じように何も考えが無いみたいで、虚空をぼんやりと眺めながら、店内に流れるジャズに耳を傾けています。
「もういっそヒモくんが犯人ということにしましょうか」
「なんですと?」
これは聞き捨てなりません。
このままでは競泳水着フェチでしかも競泳水着泥棒にされてしまいます。せめて泥棒だけは外してもらわねばなりますまい。
「ヒモくん、犯人役もそう悪くはないわ。ある種の華があるとわたしは思う」
竜宮下さんはコーヒーをぐいっと一気に飲み干し、僕に向き直りました。「例えば、明らかに死にフラグが立っているようなキャラよりも、犯人役のほうが出番が多いし、何よりも一番の盛り上がり所でしっかりと生存しているなんて、推理物においてこれほど幸運なことはないわ。ねえ、犯人はヒモくんでいいわよね。そう、犯人ヒモくん犯人ヒモくん犯人ヒモくん」
とっとと話を終わらせたいらしいです。そもそも僕らが関わっている出来事は推理物なのでしょうか。
使用済み競泳水着盗難事件。
……しょぼ過ぎます。しかも人の生き死にはなさそーです。でも、しょぼくても犯人にされるのは勘弁です。
これは仕方ありませんね。唯一考えて結局お蔵入りさせた推理を披露しましょう。
「もしや工藤さんが嘘をついているのではないでしょうか」
僕がそう言うと、竜宮下さんが目を見開き、ぐいっと僕につめよりました。娘さん特有のかほりがぷわんと香り、コーヒーの匂いと混じりあって僕の脳神経を麻痺させました。
麻薬的なものを感じますね。工藤さんが石踊さんとのニャンニャンライフにうつつを抜かすお気持ちもわかるような気がしちゃいます。
「どういうことかしら」
竜宮下さんの冷ややかで無感動な声で、僕は我にかえりました。
「つまりですね、競泳水着フェチなのは今井さんでも神田さんでもなく、工藤さんなのです。手紙のことは嘘っぱちで、あくまでも工藤さんの意思で競泳水着を盗んだのです。そして彼は、尚武屋さんに追われてあわや! というところで、かわゆい新入生藤紐くんを見つけ、一旦競泳水着を預けたのです」
「かわゆい新入生は全力で否定するけど、ほかは可能性として十分に考えられるわね」
「あるいはですね」
「まだ可能性があるの?」
「ええ。工藤さんは競泳水着フェチではないという可能性です」
「それでは動機がないわ」
「いいえ、動機はあります。工藤さんは、竜宮下さんのことがお好きなのです」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………おええぇぇ」
果てしなく長い沈黙の後、竜宮下さんは珍しく表情を激しく歪め、嘔吐のモーションを忠実に再現しました。
「うえぇぇ……ん、でも待って。それだと石踊さんと付き合っている今の工藤はなんなのかしら。納得いかないわ」
「女なら誰でもいいんじゃないすかぁ?」
「最後だけ投げやりね。口調まで投げやりだし」
「まあ細かいことはともかくですね、以上が僕の考えです。どうでしょうか。僕の推理は。見た目は大人、頭も大人」
「見た目は五歳、頭も五歳、といったところね」
「せめて十歳に」
凹んで身長が十センチほど縮みそうな僕を無視して、竜宮下さんは続けました。
「ヒモくん、石踊さんと工藤は付き合う前からずっとお互いを意識してたわ。もう周りが見ていて恥ずかしくなるほどにね。まあ証拠としては説得力に欠けるけど、二年生以上の生徒ならほとんどが納得してくれるはずよ」
「ふむむ」
「それにヒモくん、ライバルを登場させたら大変じゃないかしら」
「ほえ?」
ライバルとな? はて。
「ああ、でもヒロインがたった一人からしか好かれないというのもつまらないかもしれないわね」
「深海、三角関係は面倒だぞ」
ギイとドアが開く音と共に現れたのは城門さん。登場の仕方が実にキマっています。城門さんは僕の隣に座りアイスコーヒーを注文しました。
「あら城門先輩、三角関係と言っても二人は底辺、わたしは頂点です。気分が良いと思います」
「深海のそういうところ、幟も少しは見習ったほうがいいのかもな」
「石踊さん?」
「ああ。幟は三角関係の真っ只中だ。工藤と付き合えばもうそれも終わると思ってたんだがな。ああ見えて幟は押しに弱い。ヘラヘラ笑って誤魔化しているが、内心では相当参っていると思うよ。まったく、しつこい男だよ、テルのやつ」
「あの、テルとはいったい」
僕は城門さんに訊きました。
「溝口のことさ。溝口輝明。生徒会の副会長だ」
溝口……溝口……。
僕の頭の中で、カマキリ顔で僕ばりに小さい男子の姿が思い浮かびました。
「ああ、あの僕と同じぐらいの身長のお方ですね。この前も暗室の前でばったりお会いしたのですが、親近感が沸くことこの上なかったです」
「そう、そのお前みたいに小さい男だ。アタイとテルは幼馴染でね、あいつのことなら手に取るようにわかっちまうのさ。例えばあいつが今も石踊にベタ惚れだということも」
「石踊さんはモテますなぁ」
僕はふむふむと頷きました。ああいうハムスターフェイスは、なかなかどうして結構需要があるのです。
親しみやすいあの小学生女子的な天真爛漫さ、ヒマワリみたいに明るい性格。ううむ、向かうルートを間違えたのではと一瞬危惧した僕です。
しかし溝口さんが石踊さんルートを攻略しようとしていたなんて。そういえばいつぞやここで、溝口さんが石踊さんを情報部だかに誘っていましたね。なるほどなるほど。
溝口さん……?
何かとっても大事なことを忘れているような気がします。いや、大事なことをほとんど忘却しているような僕なので、今更感が漂いまくりですが。
ええと、僕はさっき何と言ったのでしたっけ。
『ああ、あの僕と同じぐらいの身長の方ですね――』
いやいや、その後です。その後ですよ。
「石踊さんの出番は終わったはずなのに、どうしてここでもしゃしゃり出てくるのかしら」
竜宮下さんがとてもご機嫌斜めになりつつあります。
ええと、それよりも、その後。
その後に僕はなんと言ったのでしたっけ。
「そういえば石踊さんが見当たらないわね。今日はお休みなのかしら、マスター」
竜宮下さんが訊ねると、カウンターの中でカップを拭いていたマスターは、とても爽やかな笑みを浮べ、
「クビ」
と簡潔に述べました。
「えっ――」
さすがの竜宮下さんも絶句です。
「いや、店中の豆を使って石踊スペシャルだかっていうオリジナルブレンド作ったりして、もう採算合わなくてねぇ……」
マスターは困ったような嬉しそうな、なんとも複雑な顔をしています。たぶん、クビにできて清々している気持ちのほうが強いのではないかと僕は睨んでいます。
「なるほど。わたしもあのメイドにはいささかの憤りを感じていたので、正しい判断だと思います。工藤と一緒に暗室で乳繰り合っていればいいわ」
――暗室。
そうです。僕はさっきこう言ったのです。
『ああ、あの僕と同じぐらいの身長のお方ですね。この前も暗室の前でばったりお会いしたのですが、親近感が沸くことこの上なかったです』
暗室に届けられた手紙――暗室の前で封筒を持っていた溝口さん。
僕は、ふむ、と竜宮下さんっぽく頷いてみました。なんだかとても強くなったような気がしました。ふむ。
「竜宮下さん、容疑者が新たに一人浮かび上がりました」
「ふむ」




