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愛食  作者: I-pur
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前編

 駅を出ると辺りは薄い闇に覆われていた。閑散とした街並みの中でまだ辛うじて開いている飲食店のネオンやコンビニエンスストアの灯りが周囲を小さく照らしている。

 私は腕時計に目をやり、無意識に小さく溜息をつく。職場での小さなトラブルが原因で帰宅をするのがずいぶんと遅くなってしまった。

 私は再び、今度は大きな溜息を吐いて疲弊した身体を歩かせる。

 しばらく歩いて繁華街に入ると、そこは駅の周辺と比べてずいぶんと人の姿で溢れかえっていた。

 酩酊している様子の中年男性、水商売と思わしき派手な出で立ちの女性、若いカップル……。既に十二月も一週間を過ぎたためか、あちらこちらでクリスマスに向けてのイルミネーションやイベント事の準備もなされている。

 そんな光景を横目に、私は街ゆく人々をかわしながら黙々と帰路についた。

 繁華街を抜け、住宅街の辿り着くと先程とは打って変わって周囲から人の気配は消え失せた。私の他には、道を歩く人はおろか、車道を走る車さえもない。

 私だけの静かな世界。ほんの数百メートル先では私が入居しているマンションが佇んでいる。そこでは最愛の妻が夕食を作って私の帰りを待っているはずだ。連絡もせずに帰宅が遅くなったものだから顔を合わせるなり小言の一つも云われるかもしれない……

 ふと、立ち止って空を見上げる。私の口から吐き出された白い呼気が数十センチほど立ち上って儚くかき消える。

 さて、彼女は一体どんな夕食を用意してくれているのだろうか?星一つない、藍色の冬空に視線を投げながら、私はそんな想いを巡らせた。




「あら、おかえりなさい」

 玄関の扉を開けると、妻である悠美がパタパタと小走りで出迎えた。どうやら帰りが遅くなったことに関してはさほど気を悪くしていないらしい。

「今日はずいぶん遅かったのね」

と、いつもと変わらぬ頬笑みで問い掛けてきた。

「ああ、少しトラブルがあってね」

「トラブル?何があったの?」

「後輩が明日の会議で使う文書がはいったディスクを紛失してしまってね。私が協力して探していたんだ」

 そんなやりとりをしながら二人並んでリビングへと入る。テーブルの上には二人分の食器とグラスが並べてあった。どうやら悠美も私の帰りを待っていたのか夕食はまだ食べていないらしい。

「はい、お疲れ様」

 そう云って悠美は冷蔵庫から取り出したビールを私のグラスに注ぐと、踵を返して台所へと向かう。

 食器棚から取り出した茶碗に白米をよそい、硝子製の器にサラダを乗せる。コンロの上に置かれた鍋を火にかけ、再び食器棚から大きな丸皿を取り出す。

 私はそうやってクルクルと忙しそうに駆けまわる彼女の姿に吸い込まれるように視線を向けていた。

 辻井悠美、結婚して五年目になる私の妻……、彼女は今年で二十七になるがその美しさは初めて出会った頃と比べて衰えていないように思う。短く切りそろえた艶やかな黒髪、白い肌、肉感のある身体。夫である私の贔屓目を除いても間違いなく彼女は魅力的な女性だろう。私はそんな彼女の美貌に何年もの間、魅了され続けている。そしてそんな彼女も間違いなく私のことを愛してくれているだろう。

 しかし、私達の間に子供が出来る気配は未だにない。というよりも私達は交際を始めてから結婚、そして現在に至るまで一度も肉体関係を持ったことがないのだ。もちろん、それには理由がある。

 いつの間にかテーブルの対面には悠美が座っていた。私は並べられた夕食に目を向ける。

 茶碗によそわれた白米、味噌汁、レタスとトマトのサラダ、そして……。

「さあ、あなた。食べて……」

 彼女はいつものように妖艶な笑みを浮かべながら、大量のゴキブリが盛られた丸皿を私の前に突きつけた。



 私こと辻井正一郎と悠美が出会ったのは今から八年前、まだ私が大学生二年生の頃だった。当時、大学のミステリー研究会に所属していた私は、一年後輩(とは云っても私は一年浪人しているので年齢は二つ離れているのだが)として同じくミス研に入会してきた彼女と出会った。

 互いにかのアガサ・クリスティの熱心な信者であった私達は知り合ってそれほど間を置かずに意気投合し、大学外でも時間を共にするほど親密な関係となった。その頃はまだお互いに言葉にして伝えることはなかったが、私達は(少なくとも私は)相手に恋愛の感情を抱いていたのかも知れない。しかし暫くの間、私達は友人とも恋人とも呼べるような曖昧な関係をだらだらと続けていた。

 そして、二人の関係が決定的なものとなったのは私が大学を卒業する間際になったときのことであった。

「君が大学を卒業したら結婚しよう」

 そう告げたのは二人で外出をした締めに立ち寄るのが半ば習慣化していたバーでのことだった。それはもう何か月もの間、彼女に伝えようと思い悩んでいた言葉だった。

 私の言葉に彼女は飲んでいたマティーニのグラスをカウンターに置き、黙って頬を赤らめて一度だけ頷いた。

 こうして婚約の誓いを交わした私達は悠美の卒業を待ってすぐに籍を入れ、正式な夫婦となった。

 結婚して暫くの間、私達の生活は正に幸福に満ち溢れていた。仕事を終え、帰宅しすると出迎える彼女の愛らしい笑顔が私にとっての至高の喜びだった。彼女の方もそんな平凡な夫婦生活に確かな幸せを感じてくれていたように思う。

 しかしそんな幸福の中で私の中に一つの違和感めいたものが渦巻いていた。私達の間には夫婦ならばあって然るべき”行為”が欠落していたのだ。

 肉体の交わり……、それは本格的な夜の営みは勿論のこと、唇同士の触れ合いすらも結婚式のときに形式的に行って以降、私達の間には一度もなかったのだ。恋人同士であった時分にはさほど気に留めていなかったその不足が、晴れて夫婦となると俄然その違和感を明確なものとしたのだった。

 勿論、私の方から何度か彼女に誘いをかけてみたこともあった。しかしその度に彼女は目を伏せ、黙って首を振るばかりで、結局私達は肉体関係を持つことなく一年の時が過ぎた頃、悠美に異変が起こった。

 それまではどちらかと云えば落ち着いた雰囲気の彼女であったが、次第に感情の起伏が激しくなったのだ。ある時は話しかけても返事を一切しないほどに塞ぎこみ、またある時は些細なことで癇癪を起して近くのものを手当たり次第投げつけてきたこともあった。そして比較的精神的に落ち着いてときでさえ、どこかしら苛々しているように感じた。

 そんな彼女の様子に私は不信感を抱いていた。もしかしたら彼女は私との生活に幸せを感じていないのではないだろうか?もしかしたら私の他に男の存在があるのではないだろうか?私と性行為をしないということはつまりそういうことなのではないか?

 様々な疑念が渦巻きながらも私と悠美の夫婦生活は三年目を迎えた。そして……、”その日”はやって来たのだった。

 それはいつもと変わらない朝だった。リビングから響く悠美の声に目を覚ました私は、重たい身体をベッドから起こしてスーツに着替えた。洗面所で髭を剃り歯を磨き……、いつも通りの身支度を終えて私はリビングへと向かう。そんな私を迎えた悠美の様子は明らかに普段と違っていた。

 彼女の態度がおかしいのは最早珍しいことではなかった。しかしその日の彼女はそれまでのように塞ぎこんでいたり、苛々していたりするわけではなく、何故だかそわそわと落ち着かない様子で、しかしどこかしら楽しそうでもあるのだった。

「今日は遅くなるの?」

 そんな言葉を彼女の口から長い間聞いていなかった私は思わず面喰ってしまった。

「いや、今日はいつも通りの時間に仕事を終えて真っ直ぐ帰るよ」

 私がそう応えると悠美は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。

「そう、じゃあ美味しい夕食を作って待ってるわね」

 そんな言葉に私は嬉しく思いつつも彼女の急な態度の変わりように内心戸惑っていた。




 その日の夜、私は悠美との約束通り仕事を終えるなり真っ直ぐに帰宅した。帰路の最中、私は彼女の変化について様々な思案を巡らせていた。

 いったい彼女にどのような心境の変化があったのだろう?ひょっとするとこれまでの彼女は何らかの精神病で今になってそれが完治したのだろうか?

 いくら考えてみても答えが出るはずもなく、気がつけば私は自室の玄関扉の前に立っていた。

 私は意を決して扉のノブに手をかける。そしてゆっくりと扉を開いた。

「お帰りなさい、正一郎さん」

 部屋の奥からは悠美が笑顔で私を出迎えた。こんなことはいつ以来であろうか?

 彼女が向ける屈託の無い笑顔に、先ほどまで私の中に存在していた疑念はどこかに消え失せていた。

「晩御飯の用意、できてるわよ」

「ありがとう。いただくよ」

 私は彼女に促されるままにリビングへと歩みを進める。そして一切の不審を抱くこともなく食卓についた。

「さあ……、食べて」

 私の対面に座った悠美は囁くようにそう云った。その声はどこかしら何かを期待しているように思えた。

 私は首を傾げながら箸に手を伸ばし、テーブルの上に視線を向ける。そして、その異様な光景に、思わず声をあげた。

 そこには彼女が作ったであろう料理の数々が並んでいた。

 しかし、その中の一点。茶碗に盛られた白米の中に、その”異様”ははっきりと存在していた。                                   ……何かが生きている

 私は彼女に問いかけるような視線を向ける。                                                          ……何かが蠢いている

 けれども彼女の瞳はその問いに応えることなく、先ほどと同じ言葉(食べて)を私に無言で語りかけるのだった。

 白米の中に混ざった無数の蛆虫達……、一体何故彼女はこんなことをしたのか、こんな物を一体どこから調達してきたのか。そんな当たり前な疑問よりも先に私は目の前の光景にただただ呆然とした。しかしそんな思考とは裏腹に、私の身体は悠美の蠱惑的な瞳に操られるようにして白米と蛆虫の混合物を口の中へと運んでいた。

 口の中で、蛆虫達はゆっくりと蠢いている。私は意を決してそれを咀嚼した。私の歯によって噛み潰された蛆虫達はぷちぷちと不快な感触を与え、口内に生臭い液体をぶちまける。ねっとりとした体液は苦みと若干のまろやかさを持ち合わせており、それは白米の味と合わさって更に不快なものとなった。

 私は耐えかねて床に崩れ落ち、嘔吐する。そしてじわりと涙を滲ませた視線をテーブルの対面し向けた。するとそこには、これまで見たことも無いほどに恍惚とした表情の悠美が居た。

 頬を染め瞳を潤ませ、白いワンピースから伸びた太股を擦り合わせている。そして彼女の右手は自らの下腹部を力強く押さえていた。

 その様子を見て、私は確信した。恐らく彼女は”蛆虫を食べている私の姿を見て性的興奮を感じているのだろう”と。

 そのとき、私の中に不快感とは別に、もう一つの感情が芽生えた。それは恐らく、満足感なのだろう。悠美と知り合って数年、ようやく私と彼女は真に愛し合う関係になれた、私はそう確信した。

 その日以来、彼女は毎晩のように私にこういった下手物を食べさせ、私はそれを受け入れた。あるときは蛆虫を、あるときは蚯蚓を、そしてあるときはゴキブリを……。

 ひょっとしたら私の精神は病んでいるのかも知れない。しかし、一体誰にこの想いを否定できるだろうか。私は彼女の心を繋ぎとめようと、ひたすらに必死だったのだ。

 

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