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後編

昭和十九年八月十三日 十時三十分




「――兵曹! 黒丸兵曹!」


 甲高い女の叫び声に、黒丸の意識は徐々に引き戻されて行く。水面から顔を出したかのように陽光の眩しさが目に染みた。ゆっくりと辺りが見え始め、硝煙の香が鼻を突く。

 日焼けした少女が、普段人懐っこい笑みを浮かべていた船魂の少女がいた。


「網地……!?」


 黒丸は目を見開いた。彼女の作業着が赤く染まっている。苦しそうに脇腹を抑えるその小さな手も血に濡れていた。

 視覚がはっきりと回復し、黒丸は辺りの惨状に息を飲んだ。負傷して苦しみ呻く乗組員達、甲板に飛び散った鮮血。『網地丸』の船橋は半壊し、乗組員たちの血に混じって木屑も散乱している。そこへさらに敵潜水艦から銃砲撃が加えられ、船体も大きく損傷していた。黒丸は飛び散った木材の破片を頭に受け気絶していたらしく、側頭部に手をやるとやはり出血していた。この程度で済んだのはむしろ幸運だっただろう。


「兵曹……よかっ……た」

「網地、喋るな!」


 彼女の肩を抱き、寝かせようとする黒丸。本体である船が損傷を受ければ船魂も傷つく。それが船と一生を共にする船魂の宿命だった。

 だが網地丸は首を横に振り、彼の手を振り払う。


「桔平の所へ行かなきゃ……」

「馬鹿! こんな……!」

「黒丸兵曹……平気でがすよ……! まだ戦える……!」


 搾り出すような声で網地丸は言う。苦悶の表情に無理矢理笑顔を作り、黒丸の手を強く握った。その小さな手のどこにそんな力があるのかと言うほど、強く、熱く。こんな状態になっても、船魂はかくも気高い存在なのか。しかも網地丸は軍艦などではない、ただの漁船の船魂だ。彼女が何故こうも勇敢でいられるのか黒丸には分からなかった。


「砲術長! 大丈夫でがすか!?」


 軍属の乗組員が膝を着いている黒丸を助け起こす。船魂の姿が見えない彼が気遣っているのは黒丸や、その他負傷した戦友たちだけだ。多数の負傷者が甲板で呻いているが、中にはすでに事切れた者も多い。動ける者は戦友の手当に奔走している。

 だがそんな『網地丸』に対し、敵潜水艦が無言の圧力をかけていた。『網地丸』の降伏を待つべく砲撃を中断したのだろう。ただ黒い姿を海上にさらし、砲口でじっと日本人たちを睨んでいた。軍艦の中で見れば潜水艦の砲撃力などたかが知れている。しかし木造船に乗っている黒丸らにはそれさえが脅威であり、潜水艦の姿が巨大な化け物にさえ見えた。


 だが、網地丸は立ち向かおうとしていた。


「兵曹……私はまだ沈みません……ッ! 戦ってください……!」


 苦痛をこらえながら発せられたその声は黒丸にしか聞こえない。否、聞こえていないはずだった。

 それにも関わらず、甲板の乗組員たちの目には同じ色が宿るのを黒丸は感じた。


 闘志。


 水兵も軍属も、この苦境にも関わらず士気を失ってはいなかった。機銃手が額から血を流しながらも引き金を引き、硝煙と空薬莢を船上に散撒いている。半壊した船橋から這い出た艇長も継戦を叫ぶ。


「……装填しろ!」

「はい!」


 乗組員が砲弾を手に取り、短五糎砲へ装填する。黒丸の狐目が敵潜水艦に狙いを定めた。

 轟く砲声。漂う硝煙。しかし傷を負い目眩のする頭では正確な砲撃などできない。まして敵との距離も必中距離とは言いがたい。それでも黒丸は取り憑かれたかのように砲を撃った。否、実際に取り憑かれているのかもしれないと自分でも思っていた。網地丸の不屈の闘志に。彼女の姿が見えない乗組員達にさえそれは行き届き、船上は怒号と砲声、銃声に包まれる。これが船魂の力だった。


「頼む、何とか耐えてくれ!」


 黒丸の叫びに、網地丸は力強く頷いた。彼女の手が黒丸の背にそっと触れる。

 ちっぽけな木造機帆船の上で、人と船魂が無謀な抵抗を試みていた。



 そしてそれは甲板の下でも同じであった。





















「桔平! そこの穴ば、はいぐ塞ぐだ!」


 油の臭い漂う機関室で、安住桔平は父親や機関長たちとともに奮闘していた。船板一枚隔てた先は海中。十四歳の少年軍属にとって、敵の機銃弾で空いた穴から流れ込んでくる海水は恐怖そのものだった。足が水に浸かってきており、彼の父親も脱いだ上着を気休め程度の防波堤にしたり、何とかエンジンを守ろうとしていた。いつ目の前の船板を突き破って魚雷が飛び込んでくるかも分からない。震える手で穴に布などを詰め込み、浸水を食い止める。

 桔平もこの『網地丸』にて時化や対空戦闘を経験したことはある。その度に恐怖を感じては、事後に心配してくる口うるさい網地丸に「どうってことねぇ」と突っぱねてきた。だが今回は今までに輪をかけて死の恐怖を感じる。被弾したときの衝撃がいつまでも体を震わせているように思えた。今甲板はどうなっているのか、この戦いは終わるのか。そして終わるのはどちらのときか。


「みじみじしろ、桔平! おいたちがこの船ば守るだ!」


 父の叱咤を受け、桔平は懸命に作業を続ける。ポンポンと音を立てながら稼働する焼玉エンジンを弄る父の額にも、無数の汗が滲んでいた。桔平と同じく浸水に立ち向かう機関長もそうだった。


「桔平、後は俺がやる! 水を汲んで捨ててこい!」


 目元にほくろのある機関長が叫ぶ。彼は海軍下士官だが、他の多くの海軍機関士がそうであるようにディーゼルエンジンが専門だ。安物の焼玉エンジンに関しては民間人の方が慣れているため、実質的には桔平の父が主たる機関士である。

 咄嗟にバケツを手に取り、足下に溜まった水をすくいとる桔平に機関長は続ける。


「沈みそうになったら戻ってくるな! そのときは何とかして逃げろ!」

「で、でも!」

「いいからさっさと行け! 本当に沈むだろうが!」


 怒鳴りつけられ、桔平は慌てて甲板へ向かった。「外に出たら頭を低くしろ!」という声が背後から聞こえる。

 機関士がいなくなったら船は動かない。沈没しかけようと退避命令があるまでは機関室から一歩も退かず、最後までエンジンを守り続けるのが機関士たちの役目だ。戦闘中の甲板も危険であることは変わりないが、機関室にいるよりは脱出できる可能性がある。若年の自分だけがそんな風に気遣われているのを感じ、桔平は唇を嚼んだ。


 だが明るい船上に飛び出したとき、彼は愕然とした。

 半壊した船橋、血に濡れた甲板。大人達の苦痛の声。つい数時間前までとはまるで違うその光景は、桔平の目には地獄そのものにさえ見えた。


「あ……ああ……」


 戦争は人が死ぬし、船も沈む。それを頭では分かっていても、桔平は何故かこの現実を受け入れられなかった。お国のために命を捧げるというお題目を信じながら、心のどこかで『網地丸』だけは沈まないという思い込みがあったのだろう。だがこの場に至り、彼はあまりにも近い距離にそれを感じていた。


 現実的な「死」だ。



「桔平! 伏せて!」


 呆然としていた耳に、聞き慣れた少女の叫びが飛び込んできた。声に操られるかのように咄嗟に身を伏せ、バケツの中身がひっくり返る。機関銃の曳光弾が桔平の頭上を掠めていったが、桔平は敵潜水艦よりも声の主へ目を向けた。


「網地ぃ!」


 悲痛な叫びを上げる彼に、彼女はゆっくりと歩み寄った。いつもと同じ微笑を浮かべながら。その脇腹から下たる血は甲板に染みを作っては吸い取られるように消えていく。彼女が人間ではないことを改めて感じさせる光景だったが、桔平はそんなものを見たくはなかった。


「網地ぃ! 網地ぃ!」

「大丈夫だよっ、桔平……!」


 自分の血に濡れた手で、網地丸は桔平の背を叩いた。痛みをこらえながらも、力強く。


「ほら、私はまだここにいるよ……まだ沈んでないんだよ……!」

「……姉ちゃん」


 数年前まで彼女を呼ぶときに使っていた言葉が、自然と口から出た。普段子供扱いされるのを嫌がっていたのに、命の危機に瀕して桔平の心が拠り所を求めたのかもしれない。

 そんな少年に、姉と呼ばれた船魂は優しく応えた。


「大丈夫……ほら」


 網地丸は機関室へ続く階段を指差す。空になってしまったバケツをしっかり握り、桔平は立ち上がった。恐怖心が消えたわけではない。死は相変わらずすぐ側にある。

 だがそれでも今、彼の心は安定を保っていた。自分が網地まるを守る……船乗りとしての義務で、少年は自分を支えた。網地丸が船魂の義務を果たそうとしているように。


「姉ちゃん、頑張らい! おいも頑張る!」

「うん……! お願い、桔平……!」


 船内へと消えて行く桔平。網地丸は彼が再びバケツに水を汲み、甲板に飛び出してくることを祈った。










 重度の損傷を受けたにも関わらず、軽量の木造船である『網地丸』はそこからが粘り強かった。残った爆雷を投棄して船を軽くし、動ける乗組員は海水の汲み出しと負傷者の手当に奔走した。そして黒丸たち短五糎砲要員、機銃要員は決死の抵抗を続ける。積んであった迫撃砲まで発射し、弧を描いて飛んだ榴弾が巨大な水柱を立てる。

 やがて、戦闘開始から三時間以上が経過した。






 十一時三十分



「何故……沈まない……!?」


 アメリカ海軍潜水艦『アーチャーフィッシュ』の艦橋で、金髪碧眼の少女が唸った。被弾したみすぼらしい木造船が惨めに浮かび続けている。だが一体何なのだろうか、その木造船から感じられる異常な気迫は。『アーチャーフィッシュ』の乗組員たちがいくら砲撃しようと、降伏を呼びかけようと、帰ってくるのは砲弾と鉛玉のみ。日本人たちの闘志がいったいどこから湧いてくるのか、彼女には全く分からなかった。そして艦橋に立つ乗組員たちがその木造船の機銃で薙ぎ倒され、艦魂の彼女は唇を噛む。


「あんな船に、何故ここまで……!」


 そのとき、彼女の青い目が見開かれた。

 敵木造機帆船から、日本軍の下士官らしき男がこちらを睨んでいる。距離は遠いはずなのに、艦魂には砲に取りつく細面の男がはっきりと見えた。そしてその目は狩られる者のそれではない。獲物を見つけた肉食獣そのものだった。そしてアーチャーフィッシュはその木造船が、自分を射程に収めていることに気づいた。



 勇猛に、そして無慈悲に。

 そ男の操る砲が、再び火を噴いた。




















 轟音と共に、『網地丸』の甲板はどよめいた。硝煙を吹く短五糎砲の周りで歓声が上がる。


「当たった……!」


 黒丸は目を大きく見開いた。彼の放った砲弾がついに、ついに敵潜水艦に一矢報いたのである。艦橋下部に確かな傷跡が見受けられ、敵艦の乗組員が何人か倒れている。その中に金髪の美少女がいることも、黒丸はすでに気づいていた。


「見えた……見えたぞ……!」


 未だに目眩のする状態で、黒丸はその存在をしっかりと視界に捉えていた。船魂の見える人間である黒丸にとって、彼女達は人間よりも濃密な気配を持っている。傍らにいる網地丸もまた、その少女が自分同様苦痛に耐えているのが分かった。

 それを見ながらも、黒丸は砲撃を止めようとは思わなかったし、網地丸も止めさせようとはしなかった。アメリカ軍の艦でも船魂に恨みはない。だが……


「ここが俺の……居場所なんでな!」


 家を失い、両親や兄弟も失くし、ここへ流れ着いた黒丸。軍属となった中年の漁師たちに砲術を教え、同じ船板の上で暮らす仲間となった。そしてようやく見つけた自分の居場所で、初めて船魂の少女と出会った。もの言わぬはずの船に宿る、可愛らしく活発な少女、網地丸と。

 本当は彼女を見たときから、黒丸はこの船で一生を終える覚悟をしていた。船に乗るのは初めてではなかったにも関わらず、『網地丸』の砲術長になったときから突然彼女たちの姿が見えるようになった。自分の死に場所がこの船なのではないかという考えを、いつしか黒丸は抱きはじめていたのだ。この漁船に苦し紛れの武器を積んだだけの、木造機帆船が。


 だが黒丸はそれが本望だった。漁船だった頃から『網地丸』の乗員だった軍属たちの結束は堅く、安住親子のみならず全員が家族のようだった。その皆が自分を信頼してくれ、共に戦ってくれる。彼の生涯で初めて得た温かい家が『網地丸』なのだ。

 畳の代わりにこの甲板で死ぬなら悪くはない。しかしその前にやっておくべきことがある。家族を守ること、そして意地を見せること。自分の生き様を示すために。そして自分に居場所を与えてくれた、船魂の網地丸のために。


「喰らえ!」


 再び轟く砲声。すでに三十発は撃っただろうか。


 安住桔平も船内と甲板を何往復もしていた。小さな体で水を汲んでは捨て、手足が痛くなろうと走り続けた。


「網地! 頑張っぺ!」

「大丈夫だよ、桔平……頑張って」


 甲板に出てくる度に網地丸に声をかけ、彼女もまた桔平を励ました。彼女の声と、負傷しながらも抵抗を続ける黒丸たちの姿が桔平を勇気づける。

 桔平は以前から黒丸に憧れていた。自分と同じく船魂が見え、軍人らしくも親しみやすい人柄。網地丸が彼に懐いていることに嫉妬を覚えもしたが、それでも頼れる兄貴分ができて嬉しかった。今黒丸は砲にかじりついて奮闘している。黒丸だけではない、父も、機関長も、艇長も。桔平の周りにいるのは勇敢な大人たちばかりだった。


 国のために死ぬのが立派な男だと信じていたが、今や桔平の考えは変わっていた。自分は生きなくてはならない。生きて、黒丸兵曹たちのような大人になりたい。そして平和になったら、『網地丸』にまた大漁旗を掲げてやりたい。本当は戦争などしたくはなかった、心優しい網地丸のために。


「桔平……黒丸兵曹……大丈夫……」


 網地丸はひたすらそう呟いていた。半分は自分に言い聞かせているのかもしれない。しかし彼女の声は黒丸と桔平のみならず、全ての乗組員を励ましているかのようだった。




 黒丸の撃った短五糎砲の弾は『アーチャーフィッシュ』の艦橋下部に二発、艦砲に一発命中した。合計五十発撃ったときに弾が切れ、機銃も故障した。

 『網地丸』乗組員たちは船の補修に奔走しながらも抵抗を続けた。砲弾がなくなっても三八式歩兵銃を持ち出し、小銃擲弾とライフル弾で応戦する。その無謀さは蛮勇と呼ぶべきかもしれない。あるいは戦時輸送や哨戒に木造機帆船を投入してまで戦おうとする日本軍そのものが、もはや蛮勇と呼ぶべきなのかもしれない。


 だが末端たる彼らにとって大切なのは大局を見据える戦略や政治情勢などではない。その場その場で死中に活を求めて戦うことだった。





 『網地丸』の壮絶な反撃によって『アーチャーフィッシュ』が撤退したとき、戦闘開始から四時間近く経っていた。









 ………













「ほら、桔平。空が奇麗だよ」


 僚船に曳航され、『網地丸』は港へ向かっていた。疲れた顔に穏やかな笑みを浮かべながら、隣に座る桔平をそっと抱きしめる。普段子供扱いされるのを嫌う桔平も、今は大人しく抱かれていた。

 黒丸はその光景を眺めながら、懐に一本だけ残った煙草を取り出した。火を点けながら決死の戦いを思い返し、船魂の力というものを実感する。あのとき船を包んだ闘志は、それぞれの心が網地丸を通じて繋がった結果……黒丸はそう確信していた。同時にそんな船魂と出会えたこと、家族になれたことこそが、人生で最大の悦びであるとも。


「戦争が終われば、桔平は立派な漁師になれる……」

「……うん」


 桔平の頭を撫でながら、網地丸は遠くを見つめた。日が暮れていく中、僚船の焼玉エンジンの音だけが耳に響く。長い髪が潮風に靡いた。



「平和になったら……きっと豊漁だよ」

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