前編
……時は第二次大戦。日本海軍は特設監視艇として木造の漁船までもを根こそぎ徴用し、『黒潮部隊』こと第二十二戦隊へ配備した。島国である日本にとって、広大な海域を哨戒する船艇の大量配備は必須だったのである。しかし武装の無い漁船が敵機や敵潜水艦に遭遇すればその結果は見えている上、監視艇が最後の力で『敵発見』の報を打電したとしても、日本軍には有効な迎撃を行う手段などなかった。
やがて非力な木造機帆船にさえできる限りの武装が搭載されるようになったが、それとて辛うじて敵に一矢報いる力を与えられたに過ぎない。これらの徴用船の大多数は大東亜戦争の生け贄となり、多くの乗組員たちが港へ帰らなかった。そしてその中には軍属の民間人も多数含まれていた……。
――昭和十九年 八月十二日 房総半島沖――
真夏の生暖かい潮風の中、特設監視艇『網地丸』は沖を進んでいた。木製の船体は太陽光を照り返すこともなく、波に揺られながら地味な航海を続けている。この木造機帆船が現代戦に使われる船だとは誰も思わないだろうし、実際に昨年の三月までこの船はただの漁船だった。それが今や甲板に速射砲を据え付けられ、魚を捕る網の代わりに爆雷を積む有様である。だがこれを網代わりに投じた所で敵潜水艦が捕れるとは限らない。そしてその前に『網地丸』が獲物になることも、誰もが分かっていた。
それでも沈む前には一矢報いたいと思い、海軍兵曹・黒丸平十朗は短五糎砲の手入れに余念がなかった。日焼けした顔に汗を滲ませ、細い目を時折擦りながら作業する。
ふいに上空から爆音が聞こえてくると、弾かれるように空を眺めた。敵か味方かは音で判断できるが、それでも確認を怠ってはならない。頭上を通り過ぎて行く機影は複葉の水上飛行機であり、その翼に日の丸が見えた。日本海軍の零式水上観測機である。本来の役目であるはずの着弾観測ではなく偵察や哨戒、またなまじ運動性に優れるため空中戦にまで狩り出される難儀な機種だ。複葉に加えて開放式操縦席という実に古くさい外観なれど、たくましさを感じさせる不思議な飛行機だった。しかし、それを見て黒丸は嘆息する。
「やられてるなぁ……」
彼は同僚達から『狐』と称される細目の割に視力良好で、上空の観測機に多数の弾痕が見えたのだ。敵戦闘機によるものか敵艦によるものか分からない。もっとも前者だったとしたらは到底逃げ切れなかっただろう。少しふらつきながら飛んでいるところを見るに舵も損傷しているかもしれない。それでも飛べているのだから操縦士はなかなかの腕だ。
元々飛行機に乗りたくて海軍に入った黒丸は適性検査で弾かれた末、紆余曲折を経て特設監視艇の砲術士となった。戦闘機が駄目ならあの観測機のような補助的な機種や、それも駄目ならせめて爆撃機の銃座にでもと思っていた彼だが、ボロボロになった飛行機を見るとなんとも言えない気分になってくる。そしてアメリカ軍の航空部隊との、絶望的な戦力差についても。
観測機の操縦士はこちらを見下ろし、ゴーグルに太陽光が反射している。まるでトンボに見られているかのようだと黒丸は思った。操縦士はこちらに敬礼をしており、真下に船がいることには気づいているようだ。それでも不時着水する様子はなく、何とか基地までたどり着ける程度の損傷なのだろう。その後ろ姿に敬礼を送って無事を祈りつつ、黒丸は近づいてくる足音に気づいた。
「黒丸つぁん、黒丸兵曹!」
甲高い声を出しながら、木製の甲板の上を駆けてくるのは一人の少女だった。歳は十七、八歳と言ったところか。継ぎ接ぎだらけの薄汚れた作業着を着て、肌は黒丸と同じ色に日焼けしていながらも、その笑顔は可憐に輝いている。少女は陽光に照りつけられているのだが、黒丸は少女自身が光を放っているように見えた。小型漁船の古びた甲板にあって、少女の活力に満ちた笑顔はそれほどまでに美しかったのである。
彼女は黒丸の眼前でぴたりと急停止し、長く美しい黒髪が風になびいた。
「昼食の時間でがす……じゃない、時間です!」
地方の言葉を慌てて言い直しつつ、海軍式の脇を締めた敬礼をする少女。黒丸は苦笑した。
「敬礼は掌を相手に見せないようにな」
「ありゃ」
黒丸は少女の手を取って向きを変えさせる。すり切れた服装に反し、その手の肌はすべすべとしていた。失敗失敗と照れくさそうに笑う彼女の名は網地丸という。海軍に徴用されたこの船には軍属の民間人も乗っているが、さすがに女が乗っていることなどあり得ない。この少女は特設監視艇『網地丸』の化身……船魂なのだ。
「なかなか立派な兵隊さんにはなれないなぁ、私」
「お前さんは船の守り神だろ。人間じゃないんだから軍人の真似事なんかしなくても」
黒丸の言葉に、少女はむっと顔をしかめた。
「そんなこと言ってると、徴用船じゃない艦魂の方々に会ったときに怒られちゃいますよぉ。あの人たちそういうの厳しいから」
「船魂も大変なんだな……」
艦魂や船魂などと呼ばれる船の化身は限られた者にしか姿が見えず、常に船に寄り添って運命を共にする。また国によって異なるが、船というのは大抵女に例えられるものだ。そのためか船魂の姿はうら若き乙女であり、漁船である『網地丸』もまた例外ではない。
それらの知識を知っていながらも、黒丸はこの死に物狂いの世界に女がいるという違和感を拭い去れなかった。だから心のどこかで、彼女が軍人の真似事をするのを止めさせたいと思っていたのかもしれない。
ともあれ黒丸はその心境をしまい込み、網地丸に笑いかけた。
「じゃ、飯にするか」
「はいっ!」
元気よく応え、網地丸はパタパタと甲板を駆けていく。彼女とて自分が死地にいることを知っているだろうに、何故ああも明るく振る舞えるのかと黒丸は不思議になる。もしかしたらは彼女の姿を見ることのできる希有な人間が『網地丸』に二人いるからか。船魂が見える人間というのは一隻に一人いるかいないかという存在で、漁船改造の監視艇ごときに二人も乗っているのは極めて稀なことらしい。だからこそ彼女はより一層、乗組員たちのために明るい少女でいようとしているのかもしれない。
溌剌とした網地丸の姿に、黒丸はどこかいじらしさを感じた。
「徳さんとこの息子、死んだらしいさ。B-24にやられたと」
「アメ公め、ごしっぱらける」
「また魚捕れる日は来るのかのォ」
年配の乗組員たちが鬱屈とした会話をしているのを、黒丸は麦飯を食べながら聞いていた。職業軍人である彼だが、軍属たちの会話を咎める気にはなれない。彼とて木造機帆船での哨戒がどれだけ危険か知っているし、守るべき民間人まで使ってこのような無茶をやらせる司令部に憤りを感じていた。例え必要なことであっても、人の感情がそれを許せなかった。
揺れ動く船の中で黙々と飯を食べるのはほとんどが招集された中年の予備役か、軍属となった漁師たちだ。黒丸はまだ二十代半ばだが、飛行兵になれず跳ねっ返りとして疎まれた結果、このような任務に回された。だがこの船には彼より遥かに若い乗組員も乗っている。
「桔平、よく噛んで食べなよ?」
「もう子供じゃねぇ、おしょーしぃこと言うなっちゃや」
網地丸の言葉に不貞腐れながら麦飯を頬張るのは、まだ十四歳の少年だった。辺りでは乗組員たちが思い思いに食事をしているが、小声で話す二人のが見えているのは黒丸平十朗だけだ。
この少年、安住桔平は船魂が見える人間であり、網地丸とは戦前から顔見知りだった。今は機関士である父とともに軍属となってこの船に乗り、父親の助手として働いている。十四歳の身でだ。
「ほら、ご飯粒ついてる」
「しぇずね、自分で取る」
鬱陶しそうに手を振り払う桔平。元々姉弟のような仲だったが、桔平が軍属となってから網地丸は余計に世話焼きになった。
自分も海軍の一員なのだからと、油まみれになって真面目に働く桔平はそれが面白くない。父親はまだ自分を半人前扱いするし、本人もそれは当然だと思っている。だが戦に出るからには男らしくあろうと頑張っているのに、こうも子供扱いされてはたまらなかった。
「ごちそうさま!」
空になった茶碗を素早く集め、さっさと洗い場の方へ向かう桔平。網地丸は慌てて追おうとするが、黒丸が袖を掴んで止めた。
「少しは大人扱いしてやれ」
苦笑しながら小声で言うと、彼女は拗ねたような膨れっ面で座り込んだ。
「……桔平は私が守るんです」
決意を込めて呟く網地丸。肩の力を抜け、とは黒丸も言えなかった。彼女が弟同然の桔平を心配するのは当然であるし、桔平には若さ故の危なっかしい面もある。自分が網地丸に軍人の真似事をさせたくないのと同様に、彼女も本当は桔平を戦地に置きたくないのだ。
昭和十七年四月、特設監視艇『第二十三日東丸』がアメリカ軍の艦隊を発見した。『第二十三日東丸』はアメリカ軍の猛烈な機銃掃射の中で三十分粘り『敵艦隊発見』を打電、アメリカ軍の救助を拒否して乗組員全員が戦死している。その艦隊からドーリットル中佐率いるB-25爆撃機が発進し、初となる日本本土爆撃を成功させてしまったのだが、それはこの際別の話だ。
特設監視艇が敵艦を発見するのは手柄である以前に、死を意味する。そして齢十五の少年までもがその過酷な任務に就いていた。
これが軍艦の艦魂ならばある程度は割り切れるだろう。戦いこそが自分たちの存在意義だと信じているからだ。だが網地丸はただの漁船。日本国民全てが命を捨て、お国のために戦う時代だと教えられてはいても、感情というものはそう単純ではない。
それでもいい。
黒丸はそう考えていた。合理性だけで動く人間などと共に戦えるものか。こういう不器用な連中だからこそ一緒にいられるし、軍人として彼らを守ろうという気にもなる。幼い頃に家族を亡くした黒丸にとって、この木造機帆船『網地丸』とその船魂、そして乗組員達は家族も同然なのだ。
『網地丸』が漁船に戻れるように。再び平和な海で魚を捕れるように。桔平が軍人ではなく、ただの船乗りとして大人になれるように。
軍人である自分が彼らを守る。黒丸もまた、決意を新たにするのだった。
――昭和十九年 八月十三日――
朝の海風に揺られ、房総半島沖を『網地丸』が進む。時刻は八時十分。作業着姿の美少女が軍人に混じって見張りをしているが、気づく者は黒丸しかいない。桔平は機関室で父親の手伝いだ。木造の小屋のような船橋でも艇長以下乗組員たちが注意深く作業を続けている。
網地丸は船首の砲台に立つ黒丸に歩み寄ると、彼の手をそっと握った。振り向く黒丸に対し、彼女は笑みだけを返す。無骨な作業着に反して黒髪が優雅になびいている。船魂を見ることのできる人間は数少ないだけに、彼女たちはそのような人々と触れ合うことに積極的だ。それが人間でいう恋慕の情なのかは分からない。黒丸は網地丸の手を強く握り返し、それに応えた。
ふと、網地丸の表情が変わった。人間たちから見れば、目の前にはただ紺碧の海が波打つばかりだ。しかし船の精霊である網地丸の目と耳は、人間たちが感じられないものを察知できる。波打ち、ざわめく水面のその下で、潜んでいる者の息づかいが確かにあった。
「黒丸兵曹、潜水艦です! 敵の!」
「む……!」
網地丸のしなやかな指の示す先を、黒丸は双眼鏡で注視する。すっかり見飽きてしまった紺一色の海だが、黒丸の狐目はそこから突き出た細い柱を見つけることができた。
「潜水艦、左三十五度!」
彼が細い目を見開いて叫んだのと同時に、海面から黒い塊が突き出した。潜望鏡の下から艦橋が現れ、尖った艦首が海上へ飛び出す。もはや誰の目にもその存在は明らかであり、艦影は日本軍のそれと異なっていた。
「電信員、急ぎ打電せよ!」
「総員戦闘配置! 今に撃ってくるぞ!」
木造船の中に怒声が飛び交い、その場は戦場となる。
黒丸は部下たちと共に短五糎砲の発射準備にかかった。ただの武装した木造船が潜水艦に勝とうと言うならば、先手を取るしかない。逃げられる相手ですらないのだ。
「網地、退がっていろ」
小声で告げられた言葉に、網地丸は首を横に振った。
「私は船魂! 船の難から逃げることはできません!」
可憐な声で、それでいて逞しく彼女は言い放った。船の化身であり、守護者。それが船魂なのである。
黒丸はそれ以上何も言えなかった。否、言わなかった。もはや男女の区別はない、ここはすでに戦場なのだ。そして網地丸が船魂の務めを果たそうとするならば、自分は軍人の務めを果たすのみ。守り、そして守られる……人と船の関係は昔からそうだったはずだと、黒丸は自分に言い聞かせた。
『網地丸』の船橋に搭載された機銃が射撃を開始し、断続的な発射音と共に空薬莢が溢れ出した。そして短五糎砲も火を吹いた。
「撃ェ!」
轟音と共に漂う硝煙の香。黒丸は体中が引き締まるのを感じた。やはりこの香りこそが最も『戦場』を実感させてくれる。放たれた砲弾が、敵潜水艦の側に巨大な水柱を立てるのを確認し、照準を修正して二射目を放つ。
さすがの米軍潜水艦もこの迎撃には驚いたことだろう。たかが木造船一隻、浮上して砲撃すれば片付くと考えていただろうに、即座に反撃してきたのだ。艦橋に上がってきていた乗員が慌てて艦内に戻るのが見える。
やがてゆっくりと、黒い潜水艦の姿が再び海面から沈下していった。
「敵が潜るぞ! 撃て撃て!」
黒丸らが銃砲撃を続け、砲弾が水しぶきを上げる。黒丸らの腕は決して悪くはなかった。しかしまだ距離が遠く、さすがにこちらから危険を冒して接近することはできなかった。
命中弾が出ないまま敵の潜航を許してしまい、乗組員たちに恐怖がよぎった。潜水艦はいつ、どこから来るだろうか。いつ雷跡が現れるだろうか。しかしその恐怖を押さえ込みながら、乗組員たちは果敢に戦う。甲板から一歩も動かぬ網地丸の信念が彼らを後押ししているかのようだ。
だがその網地丸でさえ恐怖心は拭いきれなかった。漁船である彼女がこのような状況に置かれたのだ、むしろ当然だろう。
黒丸は仲間達に気づかれないよう、彼女の肩を軽く叩いた。少女がぴくりと震え、次いで強がりのような微笑を浮かべてみせた。本当に強がり以外の何者でもないだろう。だが黒丸はその微笑が、今まで見た中で最も力強い笑顔だと感じた。
その後、二時間近い対潜戦闘が続いた。魚雷回避運動を取りながら、『網地丸』は爆雷を投下する。所詮は木造機帆船である以上、逃げ切ることは不可能だ。最後まで気高く足掻くことこそが、この船に施された武装の意味だったのかもしれない。
やがて敵潜水艦が浮上したとき、黒丸は即座に砲撃を再開した。先ほどよりも距離は近い。だが今度は敵も撃ってきた。四インチ砲が火を噴き、『網地丸』の周囲にも水柱が立つ。敵としてもたかが監視艇一隻に時間をかけたくないのだろう。
『網地丸』は煙幕を展開し、黒丸も砲撃を中断した。こちらの位置を知らせては不味い。
「これでやり過ごせればいいが……!」
煙の立ちこめる中、黒丸は額の汗を拭った。だが次から次へと出てくる汗は止まることなく、その原因が死への恐怖であると本人も分かっていた。国のために命を捧げると誓ったし、死も覚悟の上だった。
だがやはり、死にたくない。まだやり残したことがある、あるはずなのだ。それが何かは漠然として分からないが、何かをやり残している。
そして何よりも生きて務めを全うしたい。「家族」を守るという決意を達成したいのだ。
「――!」
……しかし、直後に飛来した砲弾が、そんな彼の心境を吹き飛ばした。
直後、体に強烈な衝撃が加わり、天と地が分からなくなる。その凶暴な力に抗えず倒れ込んだ彼の目に、飛び散る木屑が映った。遠のいて行く意識の中、住んでいた家が取り壊された光景が脳裏に蘇る。幼い頃、両親が死んだ後のことだ。
腫れ物に触れるような、親戚の家での扱い。唯一優しくしてくれた従姉妹。つまらぬ理由で叔父に殴られ、見上げた空に飛んでいた飛行機。様々な記憶が瞬間的に心の中を駆け巡り、消えて行く。
——死ぬのか……?——
黒丸は己に問いかけた。
——俺は死ぬのか? 死ぬのか!?——
混濁していく意識の中で藻掻き、這い上がろうとする。ただひたすら、無我夢中で。
そんな彼の名を、誰かが呼んでいた。
お読み頂きありがとうございます。
久々の艦魂です。
特設監視艇の戦いについて語る資料は少ないので、私の想像で書いている箇所もありますがご了承ください。
しかし特設監視艇に乗っていた軍属の民間人に十四歳の少年がいたことは事実です(九百八十七名)。
『網地丸』に乗っていたかは分かりませんが。
次回は近いうちに更新できればと思います。
よろしければご意見ご感想ご批評、よろしくお願いいたします。