あのあの先生、ちがうんです
自転車がパンクしたんです。それでも構わず私は漕ぎ続けました。
すると前方に、足をくじいて困っているおばあちゃんが見えてきました。声を掛けてみたところ、通学路の途中にある病院に行きたいとのことだったので、自転車の後ろにおばあちゃんを乗せて走ることにしました。
しかし、しばらく走ったところで、おばあちゃんが吐きました。パンクしているせいでガタガタとよく揺れたから酔ったのだと思われます。
それでですね、先生。朝っぱらから汚い話になってしまい、たいへん申し訳ないのですが、アスファルトに吐瀉物が広がりました。それを見て、私も吐きました。もらいゲロというやつです。溶けかけの朝ごはんが出てきてしまいました。公道を汚した罪深い私です。
そんな風に、朝から最悪の気分で涙目になった私は、あわをふいているおばあちゃんを無事とは言えないまでも病院に送り届けると、再び学校への道を漕ぎ出しました。交互に踏むペダルが重たいのは、心理的なものではなく、物理的にパンクしていたがために重たかったのだと思います。
やがて私の愛用ママチャリの車輪は、ついにある段差にぶつかって、グニャリとひしゃげてしまいました。
図らずもダンサーのような動きでフラフラした自転車を、誰が責められましょう。
自転車は車道に踊り出ました。乗用車が一台、自転車を避けたはずみで民家の塀に突っ込みました。崩れ去る白壁。
私はヤバイと思って一目散。
ちょ、待って先生。どこに電話してるの。ちがうんですって。まって、伊藤先生って名前だからって、語呂合わせで110番とかいうダジャレとかいいですから。本当、そういうのいらないですから。
そう、そう、どうも。電話しまってくれてありがとうございます。
ていうか、警察に電話してどうしようってんですか。イタズラ電話扱いされるのがオチだと思いますけど。
え、反省? してないですよ。私は精一杯がんばって走って、この時間になったんです。嘔吐してまで。
んぁ、ちょっと。だから、だからぁ、ちがうんですって。いえ、何もちがくないんですけどね。遅れたことは確かにまぁ、遅れてしまったわけですし。だけども、人の話はちゃんと最後まで聞きなさいって、小学校の時に習いま――。
そ、そんなに怒鳴ること無いじゃないですか。
はい、わかってますよ、言いますよ。
それでですね、一目散に逃げようと思ったんです。ところが、十秒もしないうちにパトカーがウーウーときちゃって、逃げたら捕まると思い、素知らぬふりを決め込みました。目を逸らして口笛をピューピューする感じです。
そんな私に向かって、警官が言うのです。
「お嬢さん、一部始終、見ていましたよ」
ああ、私の人生、此処にてジ・エンド。そんな風に呟かざるをえません。
本当は叫びたかったのです。弓矢でも射ち上げたくなるような蒼穹に向かって「エンドー!」とかって叫びたかったのですが、何らかの罪が加算あるいは乗算されてはたまらないので呟くに留めました。
しかし、その時、頭の中に電流が走ったのです。どうせ捕まるなら、最後まで足掻いてみろよな、と私の中のもうひとりの私が力強く言ってのけたのです。
ええ、わかります。公務何とか妨害であることは知っています。でも逃げたくなってしまった私の感情も――。
って、だから、やめてって。電話構えるのやめてって。先生ってば慌てすぎです。そんなんじゃ恋人なんて出来ま…………あ、いえ、ごめんなさい。すみません。最近、そう、破局なさったんですよね。あ、やめて。最後まで聞いてってば。それから判断してくださいよ。お願いですから聞いてください。
ちがいますよ。作り話の言い訳ではないです。あったことを並べ立てているだけです。言うなれば、今朝という名の歴史を私の唇が紡いでいるわけです。
えっと、それで、どこまで話しましたっけ。
そうそう、車が民家に突っ込んで、パトカーが来て、警官に見ていたよ、と言われたところまででしたね。そして逃げようとしたところですか、そうですか。
私は、逮捕されてなるものですか、と小声でブツブツ呟きました。そして、なんと火事場のバカぢからでもって自転車を担ぎ上げ、スタコラサッサと駆け出したのです。
そのままでいたら、自転車二人乗りの罪、公道でゲロった罪、道交法違反あたりの合わせ技一本で死刑くらいにはなっちゃうじゃないですか。死なないまでも逮捕となれば退学や謹慎を言い渡されて、人生終了が来訪してしまいます。
私はボロボロの自転車を担いで走りました。警官は、「オイ、まて、君」という実に紋切りタイプの台詞を吐いて私を追いかけました。
その時、ちょうどいいところに白い軽トラックが走ってきました。何箇所かの塗装が剥がれた部分があって、そこが茶色く目立っているような、少々ボロっちい軽トラックです。荷台には何も載っていませんでした。
僥倖であると考え、冷静さを欠きっぱなしの私は、ひとまず自転車を荷台に投げ込みました。
誤算でした。
私が危険を冒してトラックにとり付き、よじのぼったところで、車が止まったかと思ったら、軽トラというものに凡そ似つかわしくないようなスーツ姿の男が出てきました。運転席を降りた男は、私を乱暴に荷台から引き摺り下ろしました。転がる私。いわゆる女の子座りで落ち着く私。
「何すんだ。危ないじゃないか女子高生」
どうやらひしゃげた自転車を投げ込まれたのが、気に入らないようすでした。苦虫を噛み潰したような顔というのは、まさにああいうのを言うのでしょうね。
ところが、どうでしょう。私の背後から迫る制服警官の姿に視線を移した途端に、スッと真顔に切り替わりました。そして、怒りをあらわにしていたのが嘘のように静まり、素早く運転席に乗り込みました。瞬間、アクセル全開で逃げ去りました。
私は戸惑いの中で、自転車の曲がった車輪が荷台からはみ出ているのを見送りました。歪んだホイールの銀色と、ホイールから剥離したゴムチューブが、まるでバイバイと手を振るかのようにして小刻みに揺れていました。
しばし呆然としていた私でしたが、ハッと我に返りました。
私は足が速い方ではありません。警官が至近に居るその状況は、もう万事休すと断定できるものでした。もはや逃げるのを諦めた私は、嘘泣きという行動でもって情状酌量を求めながら警官に両手を差し出しました。手の甲を向ける形です。さあ捕まえてください此処に悪い子がいます、と言わんばかりに。
しかし、警官は私の存在を無視するように、無線機で誰かに連絡していました。自転車を積んだ軽トラを追うように言っていたので、きっとあの自転車を走らぬ証拠として提示し、司法の場で私を死刑にするつもりなんです。それとも仲間を呼ばれ、大勢で私刑にでもするつもりなのでしょうか。それも仕方ないと、このときは思いました。
今朝、私がやったことは、確かに伊藤先生が110番したくなる気持ちもわかるようなものだったからです。
ところが、この後、びっくりするようなことを言われました。「了解です」と言って、無線を切った警官は向き直って言います。
「君のおかげで、凶悪犯を三人も一気に捕まえることができた。一人目は凶悪な詐欺師、二人目は殺人犯、三人目は空き巣常習犯だ。君にも君の学校にも、いずれ感謝や表彰があるだろう」
私は目を丸くしました。キラキラの手錠を掛けられるとばかり思っていたからです。
警官は私に名を尋ねた後、
「これから学校かい? 気をつけてね」
そう言って帰って行きました。
こうして、私は捕まることなく登校できたわけなんです。でも、交通ルールを破り、まちを汚し、交通事故の引き金を引き、警官から逃げ出し、見ず知らずの車にチャリを投げつけて……。
並べ立ててみると、完全に私が最悪ですね。どうして悪いことをしたのに感謝や表彰されるのか、私にはさっぱり理解できませんので、これから自首をしようと思います。
さっきまでは、私は善いことをしたんだ、私が犯罪者を捕まえるきっかけを作ったんだって、誇らしい気分でいたのです。でも、だからといって、それが裁かれない理由になるかと問われたら、そんなことは絶対に無いと思うんですよ。
冷静に考えれば、私も罪人で、捕まるべきことをしています。
伝統と格式あるこの学校から犯罪者を出してしまうことになって、甚大な御迷惑だとは思うんです。でも、喋っているうちにですね、自分で自分を、ゆるすことが、できなくなってしまったんです。
ちがうんです。嘘ではないのです。嘘だったら、どんなに良かったでしょうか。
ちがうんです。悪いことをしたのです。だから裁かれたいのです。そうしないと何時の日か、後悔することになる気がするのです。
先生に何と言われようと、私の心は決まってしまいました。
さようなら先生、ごめんなさい。いままで、ありがとうございました。
【おわり】