1、手紙
東京都の都市部に位置する高校。そのうち二階の一番奥、その教室で俺―――池田圭介は友人とたわい無い話をして待っている。
すると廊下をパタパタと駆ける音が近づいてきて、教室のドアが錆びたレールの上を滑る音が響いた。
「ごめん、待った?」
ドアの向こうに現れたのは内巻き癖の髪を持つ女子高生―――音無恭子。小学校に入学する前からの俺の幼馴染みと言うやつだ。家も近いので登下校は毎日一緒にしている。
「いやいや、保村と下らない話してたから退屈はしてないよ」
俺は片手を上げて返事した。すると、保村は慌てたように言い返す。
「なっ!? 下らないだと!? まあ、そうだよな。恋人に比べりゃ俺なんてな」
「バカ、違えよ。何度言えば分かんだ。そんな関係じゃないっての!」
そう、俺は一般的で健全な、いわゆる普通の高校生。普通の家に生まれて、普通の名前をもらって、普通の学校に行き、普通に友達を作ってきた。
普通に、至極普通に生きてきた。
今思えばこの普通が一番幸せだったのかもしれない。まさか、この後俺のこの平和な日常がこんなに唐突に壊される事になるとは思いもしなかった。
† † † † †
「ただいまー」
時刻は午後五時。恭子とは既に近くの交差点で別れ、ちょうど我が家へ着いた所だ。恭子の日直の仕事を待った分、いつもより多少遅くなったかと思ったけど、大体いつも家に着く時間と変わらないな。
「圭介、ちょっといい?」
母さんの声だ。食卓の方からか。俺は靴を脱ぎ捨てて食卓へと向かう。
やはりそこには母さん―――池田美幸がいた。だがどうやら母さんの様子がおかしい。元気が無いように見える。風邪でも引いたのか?
「これ、どういう事だか分からないんだけど圭介分かる?」
母さんは、俺に白い封筒を差し出した。封筒自体には何も書かれていないようなので中を見ると、大きめの名刺くらいの小綺麗な紙が入っている。取り出して読んでみると、そこにはこう印刷されていた。
_______________
池田 圭介様
あなたにも能力が発現する頃でしょう。あなたはその能力を活かして国の未来のために働くメンバーに選ばれました。
少々危険を伴う事もありますが、国の未来のためには大事な仕事です。
あなたに拒否権はありませんが、考える時間を与えます。明日お迎えに上がりますので準備の程をよろしくお願いします。
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「何…? これ…」
自分に宛てた文だという事だけは分かったけど、内容はさっぱり理解できない。もし悪戯で無ければ危険な雰囲気もある。大体、チェーンメールが流通する時代にわざわざ俺個人宛てに悪戯なんて誰がするんだ。
さらに言えば封筒に住所も書かれていなかったので、この封筒は直接郵便受けに入れられた事になる。家の前まで差出人が来ていたと思うと気味が悪くて仕方が無い。
ふと顔を上げると、母さんは心配そうに俺を見ていた。
※ ※ ※
それからしばらく経って外は暗くなり、父さん―――池田護が帰ってきた。母さんは、すぐに父さんにもあの手紙を見せた。
「これが郵便受けに入ってたの…」
父さんは、手渡された手紙を読み始めた。先を読むうちに顔をしかめていくのが見える。そして、読み終えた父さんは呆れたようにこう言った。
「ただの悪戯だろう」
これが父さんの出した結論。でも、母さんはそれを好ましく思っていないようだ。
「でも本当だったらどうするの? なんだか脅迫状みたいだし、警察に言った方が…」
脅迫状ね。確かにそうだよな。枝葉を取ってしまえば誘拐の予告状に見えてくる。
「じゃあなんだ? 圭介に何か“能力”が発現したのか?」
その後も父さんと母さんは言い合っていたが、頭に全然入って来ない。
どう判断すべきなんだろう。一番気にかかるのは“能力”、一体何の事を言っているんだ? 全く身に覚えが無い。
混乱して良く分からないけど、悪戯だろうと言うのは俺も同意見だ。でも、それはそう思う事で現実から逃げようとしているだけなのかもしれない。
※ ※ ※
結局、今日も普段通りに学校に行く事になった。それも、昨日の父さんの『下らない悪戯で呼ばれたら警察も困る』と言う言葉のおかげだ。
少し不安な点もある。でも、能力がどうとか身に覚えが無いし、学校に行くのには賛成だ。あんな悪戯を本気で信じるのは重度な中二病患者くらいだろう。
ところで、恭子の姿が見えないな。俺は今、恭子と普段待ち合わせている交差点に着いた所だ。ここを直進すれば恭子の家がある訳だけど、その直線上にも恭子の姿は見えない。左へ進めば学校だが、先に行ってしまったなんて事は無いだろう。
あれ? 朝はいつも恭子が待つ側なのにな。よし、どうせ近くだし今日は俺が迎えに行くかな
恭子が朝遅いのは滅多に無い事ではあるが、驚く程の事では無い。
しばらく歩くと、すぐに大きめの洋風の家が見えた。恭子の家だ。
門の横に備えつけられた呼び鈴を押すと、特有の電子音が建物内で響くのが聞こえた。
『はい、音無です』
インターホンに出たのは恭子の母親―――音無静だった。
「池田です。恭子を迎えに来ました」
「あ、圭介君? ちょっと待ってて」
すぐにインターホンは切れ、恭子を呼ぶ声が家の中から聞こえる。
しばらく待っていると、家の扉が開かれて恭子とその母親が出てきた。
「おはよう、圭介」
俺は、その恭子の表情を見て驚かずには居られなかった。恭子は、泣いてはいないもののとても辛そうな顔をしている。
「おう、おはよう」
一体何があったのだろう。今まで恭子のこんな表情は見た事が無い。
―――!?
その時、俺の頬を一筋のしずくが流れ落ちるのを感じた。俺はそれを手で拭った。
涙か…? 気がつけば俺の心にも言い知れぬ不安が増幅していた。
何故だか恭子は他の人の心を動かしやすい傾向にある。今の俺の涙もそれによる影響だろうか。不思議なものだ。
そんな事を考えていると、恭子の母親が俺に近づいてきた。何の用件かと思考を巡らしていると、耳元にそっと口を当ててこう囁かれた。
(なんだか恭子、夕べからおかしいの。悩んでるみたいだから聞いてあげて?)
恭子の母親はすぐに俺から離れると『行ってらっしゃい』と言い残し家に入ってしまった。
悩み、か…。まあ、その悩みとやらは歩きながらでも聞ける。まずは学校へ歩こう。
※ ※ ※
俺達は昨日までもそうしていたように並んで歩いている。だが、昨日と違って沈黙が続く。恭子が自分から話す様子は無いし、とりあえず悩みとやらを聞いてみよう。
「恭子、今日は元気無いな。何かあったのか?」
恭子はしばらく黙っていた。だが、俺がもう一度声をかけようとした時、思いきったようにその口を開いた。
「実は…、これが昨日郵便受けに入ってて…」
そして手渡されたのは小さな紙。
嫌な予感がする…。昨日俺に届いた物とサイズが同じくらいだ。
俺はその紙に書かれた内容に目を通した。
_______________
音無 恭子様
あなたにも能力が発現する頃でしょう。あなたはその能力を活かして国の未来のために働くメンバーに選ばれました。
少々危険を伴う事もありますが、国の未来のためには大事な仕事です。
あなたに拒否権はありませんが、考える時間を与えます。明日お迎えに上がりますので準備の程をよろしくお願いします。
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やっぱり…。俺に届いた物と同じ。恭子にも届いていたのか…。
「これ…、昨日俺の家にも届いてたよ」
「え? じゃあ圭介にも能力が?」
「いや、俺は能力ってのが何を言ってるのかも分からなくてさ。大体こんなのどうせ悪戯だろ」
「………」
恭子は黙りこんでしまった。いや、やめてくれよ。嫌な想像してしまうじゃないか。
「恭子?」
おかしい。いつもの恭子ならこんな悪戯適当に流すはずだ。何か心当たりがあるのか…? 恭子が不安そうにすると、俺まで自分の考えに自信を持てなくなってくる。
しばらくして恭子は、決心したように口を開いた。
「あのね、私その能力っていうのに心当たりがあるの…」
「…え?」
俺が恭子のその言葉を理解するのには少し時間がかかった。
「えっと、どういう事だ?」
心当たりがあるって…。つまり、国が欲しがるような能力を恭子が持ってるって事か? 聞いた事無い。
「私、一年前くらいに気づいたの。自分の感じてる感情が異常に相手に伝わる事に」
「いや、それって性格とかの問題じゃ?」
「違うの! 異常なの…。多分これがあの手紙に書いてある能力…」
でも、確かに異常かもしれないな。今までそんな事気にした事もなかったが、言われてみると異常に思えてくる。
今、恭子の必死に伝えようとする熱意が分かったのは恭子の表情からではない、仕草からでもない。空気からとでも言うべきか…。ひしひしと恭子の方から伝わってきたのだ。
音を聞くように物を見るように自然と恭子の感情が伝わってきたのだ。
「私が喜べばどんなに辛い事があって絶望した人の表情も笑顔にできるの。
私が怒れば、どんなに希望に満ちて笑顔の人の表情も恐怖に染められるの。
近くにいるだけで、例え態度に表さなくても。
これって、異常だよね…」
「そう…、かもな」
正直信じたくなかった。でも、良く考えれば無理矢理に納得出来る。恭子に先程会った時、突然涙がこぼれ落ちたのも恭子の不安な感情がさせたものだろう。表情だけで同情させるなど普通は出来ない。現実から逃げる訳にはいかない。
「私達、どうしたらいいのかな?」
「どうしたらって?」
「あの手紙の事。私の能力が手紙の能力の事なら圭介にも能力がある。そして連れていかれちゃう」
「そうだな…」
そう、恭子の能力が本物だとすると俺にも能力が芽生える可能性が高い。能力がこのような異常な力を指すなら国の未来の為と言うのも頷ける。そうなると、手紙の信憑性も高くなってくる。
俺達は今日中に捕まり、おそらくその能力を利用されて危険な何かをやらされる。
「とりあえず学校に行こう。あそこなら人が多いから安全だ」
恭子は力強く頷いた。そして、俺と恭子は学校へ向かって再び歩き出した。
※ ※ ※
俺は、塀の端に寄りかかって通学途中の二人の高校生の話を聞いていた。
ちょうど塀が死角になって俺の姿は向こうには見えていないだろう。よく聞こえなかったが、能力の話をしていたのは分かった。
「こんな所にも能力者がいたのか…」
手紙について話していた事から察すると、今日また誰か来るんだろうな。五十嵐が言っていたのはおそらくこの事だろう。
ふと今気がついたんだが、右手に違和感がある。目を向けてみると、右手が触れていた辺りの塀が薄く凍りついている。
まずい、無意識に能力を発動させてしまったらしい。武者震いのような物だろうか。
「さて、一旦戻るか」
俺は袖で塀を軽く擦って氷を落とすと、その場を離れた。
† † † † †
俺達は、学校でいつも通りに振る舞うよう努力した。恭子の力のせいか今日は教室内の空気が重苦しかったように思う。時間は過ぎ、気がつけば下校の時間となっていた。
「圭介、大丈夫かな?」
「分からない。でも今は家に帰るしかないのは確かだよ。人の居なくなった学校はむしろ危険だからな」
今はいつもの並木道を歩いている。時々人とすれ違う度に緊張が走る。
恭子は肩を小さく震わせている。恭子の感情が俺にも流れ込んでくる。だが、そんな能力に惑わされている場合では無い。今恭子を守れるのは俺だけだ。ただ恐怖に耐えて歩かなければいけない。
どうする、本当に家に帰って平気なのか…? 恭子にはああ言ったけど、自分の行動に自信が持てない。
※ ※ ※
しばらくして、俺と恭子はいつも別れる交差点で別れた。
「じゃあな」
俺がそう言うも、恭子は反対側へ歩き始める気配を見せない。むしろこっちをじっと見ている。
「本当に行くの?」
恭子は心配そうな顔をしている。でも、どうしろって言うんだ。ここまで来たんだし、まずは帰ろうよ。
どうせここから家はすぐだし大丈夫だろう。それともやはり危機感が足りないのだろうか…。
「ああ、これからどうするにしろ準備しないとな」
こんな事を言うと、もう自分の家に戻る事が出来なくなる時が近づいているような、そんな気がしてくる。
その直後、遠くから叫び声が聞こえた。
「圭介、来ちゃ駄目…!!」
母さんの声だ。ひどく慌てた母さんの声。
100メートル程先、家の方を見ると、母さんが玄関の前に立っているのが見える。そしてもう一人、黒いスーツに身を包んだおそらく20代前半の見知らぬ女の人もいて、何やら話していたようだった。
その女は母さんの視線の先、つまり俺を確認すると作ったような笑いを浮かべてゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
「あなたが池田圭介ね」
おいおい、まさかあの女が手紙の差出人だったりしないよな…?
「そして向こうにいるのが音無恭子ね」
やっぱり、この女が差出人だ! 近づいたら確実に連れて行かれる!
俺はそう思いつくより早く後ろに振り向いて、恭子に向かって叫んでいた。
「恭子! 逃げろ!!」
しかし、恭子は恐怖で足が動かないようで、足を震わせてただその場に立ちすくんでいる。
「フフフ、正解みたいね」
正解…? おいおい、どういう意味だよ。俺はゆっくりと黒スーツの女の方に向き直る。
「鎌をかけたのか…?」
「そうよ、顔は知らないもの。フフ、一石二鳥ね」
黒スーツの女はゆっくりと歩み寄ってくる。
もうあと20メートルくらいだろうか。
くそっ、罠か! まんまとはめられた! 恭子まで巻き込んでしまうとは…。とにかく今は逃げないと!
俺は地を蹴って恭子の居る方へ走り出した。
「無駄よ」
その言葉の直後、俺は何かに右足を引っ張られ、前のめりに倒れた。
引っ張られた足を見ると、植物のツルのような物がコンクリートを突き抜けて生えていた。それはきつく俺の足首に巻きついている。
俺は、上体を持ち上げて足首に手を伸ばし、巻きついた植物を外す作業を始めた。
しかし、その植物は強靭で切れそうになく、キツくてほどけそうになかった。
「だから無駄だって言ってるでしょ?」
俺は、諦めて黒スーツの女の方を向いた。その女は黒い鞄から注射器を取り出していた。
「お前、一体誰なんだよ…」
「フフ、私に興味があるの? あの手紙の差出人よ。お迎えに来てあげたの」
黒スーツの女は可笑しそうに笑った。
「不満そうね。まあこれから仲間になる訳だし、名前も教えとくわ。
私は橘梨花。ある程度の範囲内ならどんな植物でも生やせて、さらにそれらを操れる力を持ってるの」
そこまで言うと橘は注射器の先から2、3滴薬を垂らした。
「後は眠らせるだけね」
橘はしゃがみこんで俺の腕をつかんだ。
「抵抗しなければこんな事しないで済んだのにね」
「やめてっ!!」
後方から聞こえる悲痛な叫び声。振り返るとやはり恭子だった。俺はもう無理だ…。早く逃げてくれよ…。
「圭介から、離れて!!」
なんだ? 足が軽くなったような気がする…。
まさか足に巻きついたツルが緩んでいるのか!? そうか! 橘は恭子の能力で俺に対する同情が微かながら生まれたんだ! でも、おそらくこの同情は一瞬だけ!
この一瞬の隙を逃す訳にはいかない。急いでツルをほどいて恭子の方へと駆け出した。
「恭子! 走るぞ!!」
俺は恭子の手を引いてただ走った。
橘は俺達が走るのを見て我に返ったようだが、時既に遅し。さすがにここまでは届かないだろう。
「あっちはもう力があるのね。油断した」
橘の顔からは先程までの怪しい笑みは消えていた。本気にさせてしまったのかもしれない。
俺は前に向き直り、恭子を連れて全力で走り続けた。
「圭介、どこに行くつもりなの?」
「とりあえず、どこか遠くへ。しばらく身を潜められそうな場所を探そう!」
道をジグザグに進む。考えている暇は無い。勘で道を選ぶ。大通りから抜けて家と家の間の狭い通路に入り、右に曲がると人気の無い暗い道に出た。
その道をしばらく走っていると、後ろから車の走る音が聞こえてくる。こんな狭い道を車が通るのかよ!
「危ない!」
俺は恭子を端に避けさせた。轟音をたてて車が俺達の横を走りぬける。
かと思うと車は俺達の前で急ブレーキをかけ、大きく揺れて止まった。
俺達は知らぬ内に立ち止まっていた。すると、ドアの開く音が聞こえ、赤いスマートな車から黒いスーツに身を包んだ女が降りてきた。
「久し振りね、お二人さん」
橘だった。
もう、追いついたのか…!?
「残念だったわね。大人には車という移動手段があるの。いくら走ろうと無駄なのよ」
俺達は進む道を阻まれ、急いで後ろへと向きを変えて走る。
「だから無駄だって言ってるでしょ!」
「っ…!」
突如恭子が前のめりに倒れた。今度は恭子の左足へとツルは巻きついていた。
「恭子!」
急いで俺は恭子のもとに駆け寄る。まずいな、どうやら橘が能力を使える領域に入ってしまったみたいだ。
俺はツルをほどこうと力を入れる。だが、足が抜ける様子は無い。
その間にも橘は近づいてくる。
「さあ、大人しく私について来なさい。悪いようにはしないから」
「嫌です!」
恭子は、恐怖とも怒りともつかない叫び声をあげた。ビリビリと感情の波が周りに響く。
しかし、ツルが緩む気配はない。
「フフフ、残念ね。二度も同じ手にはかからないわ。力がもうあると分かればこっちも全力でやるまでよ。さあ、諦めなさい」
…ちくしょう! 万事休すか!?
俺が諦めようとしたその時だった。突然二本の尖った物が横から飛び出し、橘を襲った。
橘は間一髪で後ろにかわした。
「…誰なの!?」
橘は凄い剣幕でそれらが飛び出した方を怒鳴りつけた。そこには塀しか見えなかったが、誰かが隠れているのは明らかだ。
隠れている事を諦めたのか、塀の裏から男が現れた。見覚えのない男だった。
「あんた、誰よ?」
橘は怒りの混ざった口調で言った。まだ警戒しているようで少しずつ後ずさりしている。
男は、そんな橘を気にせず、堂々と恭子の方へ近づいて行った。
「そんなに警戒するな。お前を殺すつもりはない」
男は恭子の足下へしゃがみこみ、巻かれているツルをつかんだ。すると、ツルはみるみるうちに凍りついてしまった。
そしてその男はツルの凍った部分を握りつぶした。ツルはぼろぼろと崩れる。
「植物なんて凍ってしまえば脆い物だな」
「あんたは何者か、って聞いてるのよ!!」
橘はもはや平静を保ってはいなかった。邪魔されたのが気に食わないのだろう。
「俺は氷川玲次だ。この二人を助けに来た。満足か?」
「こいつ…」
橘は、これ以上素性を聞いても無駄だと分かると質問をやめた。
俺はその二人の会話を聞いても状況をつかめずにいた。
触っただけで凍りついた。能力を持ってるって事か…。でもなぜ? なぜ俺達を助けた?
そう考えているうちに、氷川さんは俺達を移動させようとした。
「行くぞ」
「動かないで!」
橘の怒声と共に四方向から長い植物が生えてきた。今度はとげがついている。
「フフ、今度は薔薇よ。少しでも動いたら傷だらけにするから。氷川だっけ? どう? とげが生えていても握りつぶす事はできるかしら?」
「ちっ…、仕方ないか」
「フフフ、諦めたみたいね。どうやら三人同時に捕まえられるみたい。一石二鳥どころか一石三鳥になったわ」
橘は先程までとは違い、嬉々とした表情をしている。
「違う、誤解している。使いたくなかった手を使う事に舌打ちをしたんだ」
「何それ、負け惜しみにもなってないわ」
橘は巨大な薔薇の茎をクネクネと動かして挑発している。
「春香、頼む」
氷川さんは不機嫌そうな声で言った。すると、先程まで氷川さんが隠れていた塀が宙高く舞い上がる。
「え…!?」
「任しときー!」
塀が飛んで露になったのは女性の姿。だが、もう上から先程の塀が落ちてきている。
危ない、と俺が思うと同時に春香と呼ばれた女は高く飛び上がり空中で逆さになった。そして、右足で落ちてくる塀を蹴り飛ばした。簡単に言えば、塀をオーバーヘッドキックしたのだ。
「残念やったなぁ。うちがおらんかったらあんた勝ってたかもしれへんで?」
※ ※ ※
蹴られた塀は、女の体で蹴ったとは思えない程のスピードで飛んでくる。
いや、成人男性でもこんな真似はできないわ。
私は、何十本ものツルを地面から生やし、飛んでくる塀へと巻きつけた。体力の消費は激しいけど仕方がない。
後ろには私の愛車がある。避けたら確実にぶつかるから、ツルで受け止めるしかない。
私は、塀の勢いを止めようとツルに全力をそそいだ。ツルは大きくしなっている。あともう少し…。
そして、塀の勢いは私の目と鼻の先で完全に止まった。
塀が地面に落ちる鈍い音が響いた。はぁ、なんとかなったわね。あの女をまず傷めつけようかしら。
「さあ、万策尽きたでしょう!?」
私が氷川達に視線を向けた時、そこには先程まで居た四人の姿は無かった。
ただ大きな薔薇が四本虚しく揺れているだけ。その時になってやっと私は気づいた。
塀を飛ばしたのは私の視野を狭めるためか!
「あれも能力よね。氷結男と怪力女、絶対にいつか捕まえてやる…」
私は守りきった赤い車に乗り、勢い良くドアを閉めた。
† † † † †
「紅茶でええよな」
春香さんはテーブルに置かれた四つのティーカップに紅茶を注いだ。
「あ、ありがとうございます」
「ええよ、そんなかしこまらんでも」
春香さんはにこりと笑った。
結局あの後俺達は逃げきり、俺と恭子は玲次さんと春香さんが共に住む家に入れてもらったのだ。
「で、さっきの話に戻るが、お前はまだ能力は使えないのに、あの手紙が来たんだよな?」
玲次さんは俺にそう尋ねた。
「はい、少なくとも自分では把握してません…」
むしろ何か能力があるなら教えてほしいくらいだ。
「ふむ、これではっきりしたな」
玲次は一呼吸置いて続けた。
「これは誰かの陰謀だ。俺達はその誰かに力を与えられたんだ。何かの目的でな…」
† † † † †
深紅の絨毯に眩しすぎぬ照明。特注の作業机に快適な回転椅子。ここ、総統室は常に私にとって最高の状態です。こうでもしなければ重圧に負けてしまって組織の総統なんてやっていられません。
机の上に常備されたコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注ぐ。まだ湯気の立ち上るブラックコーヒーを口に含む。そしてその余韻に浸りながらパソコンの画面上の書類に目を通す。これが私の日課です。
特に今日は忙しいです。今後の計画のためにもいろいろと準備が必要となりますからね。
私が心地よく仕事をこなしていると、ノブの回る音がして、目の前のドアが開いた。
全く…。ノックくらいしてくださいよ。
「帰って来たんですね、橘さん。それで能力者の方は?」
「無理無理、収穫無しですよ。大体…」
そこで橘さんは口を濁しました。何か言いたい事があるようですね。
「どうしました? 橘さん」
私はノートパソコンは閉じて橘さんの話を聞く事にしました。部下の教育も仕事の一環ですからね。
「大体、あんな手紙を出すから警戒するんじゃないですか?」
その話ですか…。橘さんは思い切って言ったようでしたが、私は再びノートパソコンを開いて元の仕事に戻る事にしました。こんな話は聞くだけ無駄です。
「あなたなら分かってくれていると思っていました。あなたは、あの手紙が無かったら今私の部下、それもこの地位で働いていると思いますか?」
私は尋ねながらもコンピュータの操作は止めません。こちらは忙しいのですよ。このような下らない事に割く時間は無いのです。
「もちろんです! 私はこういう国のためになる仕事がやりたかっ―――」
「―――いいえ、まずあなたは逃げたでしょうね。何の前触れもなく連れて行こうとすれば誰だって逃げようとするでしょう。だから先に手紙を出すのです。そうすれば少なからず相手に考える時間を与えられる。そうやって考えてもらう方が、私達と同じ意見の者や協力的な者は進んで仲間になってくれるのですよ。まあ、そうでなくても強制ですが、私としてはあなたのような協力的な仲間がいる方がいい」
橘さんはどうやら返す言葉を失ったようです。この任務の失敗はあなたの責任なんです。任務自体にケチをつけるとは言語道断ですよ。
「あ、そうそう黒田さん。そこにいますよね?」
私が問いかけると、部屋の奥の物陰からやはり黒田さんが出てきました。いつも知らない間に部屋にいますね。ノック以前の問題ですよ。
「ハハハ、お見通しかよ」
「橘さんが取り逃がした所の家族、消しといてください。まだここは表に出る訳にはいきませんから」
「へいへい、行ってきますよ」
黒田さんはそう言うと、再び物陰に向かっていき、見えなくなりました。まあ、いつもの事です。
「さて、頑張りましょうか。私の代で実現させるためにも」
私は、気合いを入れ直して再び仕事に取り組む事にしました。




