第1話
先輩の「水槽が茹だった」という言葉を思い出したのは、我が家の六十リットル水槽から、妙に香ばしい磯の匂いが漂ってきたときだった。
サーモスタットの故障。
ガラス面に設置された水温計の赤線は、振り切れている。そして水面からうっすらと湯気が上がっている。
ヒーターのパイロットランプだけが、無意味に赤く点灯し続けていた。
スマホの画面の向こうで誰かが炎上し、他人の不幸を美味そうに咀嚼しているSNSを辞めてから、私の世界は酷く静かだった。
だが、その静寂の真ん中で、数十匹のグッピーとメダカが「完璧に調理されて」水槽の中の対流に合わせて白々と回遊している。
変わり果てた小魚たちを眺めているうちに、私は思いついてしまった。
目の前で自然対流している小魚たちは、グラム当たりの値段で見れば大トロなどよりよほど高いわけで、旨くないわけがない。
私は静かに台所へ行き、引き出しから一番細い竹箸を取り出した。
小皿を一枚、そして冷蔵庫のドアポケットから、よく冷えたポン酢の瓶を取り出す。
まずは上に巡って来た日本古来のメダカから箸をつけた。
水槽の中から一匹をすくい上げ、ポン酢を張った小皿へ軽くくぐらせて口に運ぶ。
噛んだ瞬間、淡水魚特有の微かな泥臭さが鼻に抜けるが、ポン酢の鋭い柑橘がそれを綺麗に殺している。
食感は、まるで極小のシラスだ。
ただ、細い骨が網目のように舌に触れる。
命の小ささに比例して、その味の主張も極めて希薄だった。
次に、生前は華やかだったドイツイエロー・タキシードのオスを選ぶ。
あの見事な黄金色の尾鰭は、熱によって縮み、まるで出汁をとった後の昆布のように小さく萎びていた。
口に入れる。
驚いたことに、鰭のタンパク質が独特のゼラチン質に変化しており、妙にネットリとした舌触りがある。
見た目の派手さに反して、身そのものは酷く淡白。
これが虚栄の味なのかと妙に感心してしまった。
最も「肉」を感じたのは、腹の大きく膨らんだメスだった。
竹箸で掴むと、体内の卵が熱でボソボソとした質感に変わっているのが指先に伝わってくる。
口に含むと、魚卵の濃厚なコクと、内臓の仄かなほろ苦さが混ざり合った。
しらす干しのワタの部分に似た、重層的で生々しい旨味が口いっぱいに広がる。
私は一旦箸を置き、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出した。
プシュー、と小さく湿った音を立ててプルタブを引き抜く。
冷えた液体を喉に流し込むと、苦味と炭酸が魚の脂を綺麗に洗い流してくれた。
水槽の前に、缶ビールを置き、次の「一匹」へと、自然に箸が伸びる。
缶ビールによく合うことが分かった。
全てを平らげたわけではない。
ただ、いくつかの品種を「テイスティング」し終えた頃には、私の胃の腑は奇妙な満足感で満たされていた。
先輩はあの時、自分の失態に絶望しながら、大量の死骸を台所の三角コーナー用のゴミ袋に詰めたと言っていた。
だが、冷えたビールを片手に、茹であがった小魚を淡々と咀嚼している今の私の方が、よほど絶望的な光景かもしれない。
しかし、私にはこちらの方法の方が、よほど彼らに対して誠実であるように思えた。
私は箸を小皿に置き、冷蔵庫の野菜室からネギを取り出して、台所に持っていき、細かく刻んで小皿に取った。それを持って水槽まで戻り、食事を再開した。
ネギのおかげで、鼻につきだした生臭さが消えた。
全部食べ終え、ビールも飲み終えた私は、ゲップを一つして、後片付けに取り掛かる。
そして静まり返った水槽の水を抜く作業に取りかかる。
排水ホースから、微かな生ぬるい風が部屋に流れた。
世間では今日も、見ず知らずの誰かの失敗が消費されているのだろう。
だが彼らは、自らが消費しているものの味を本当に知っているのだろうか。私は知っている。私の地獄は、冷えたビールによく合うのだ。
私はただ、自分の手元にある地獄を、最も冷静な方法で消費したに過ぎない。
(完)




