ある二人の会話
男には行きつけのバーがあった。
一本脚のカウンターチェアが七席だけ並ぶ小さなバーだった。半円状のカウンターの内側では、マスターがいつも穏やかに酒を作っていた。
そのカウンターチェアの色はとても変わっていて、奥から、黒ずんだ赤、琥珀のような橙、くすんだ黄、深い緑、淡い水色、濃い青、艶のある紫の席があった。マスターの趣味なのかもしれない。男はいつも青色の席に座って、スクリュードライバーを傾けていた。
男とマスターだけの店内に、女が入ってきた。
首元まで隠れた黒に近い濃紺のワンピースを着ていて、腰の位置は細く絞られている。比較的簡素な見た目だが、胸元に留めた銀のブローチが印象的だった。表面には小さな傷があり、長く使われてきたことがうかがえた。
美しい。男は一目でそう思った。
小さな花をかたどったブローチに見覚えがあった気がしたが、そうした考えは女の美しさに流されていった。
女は店内を少し見て、男を認め、緑色の席に座った。そして男に話しかけた。
「私のこと、覚えてる?」
女の言葉に、男は少し面食らった。
「いいや。どこかでお会いしましたか? あなたのような人、会っていたら忘れるはずがない」
「そう」
女はマスターにプレリュードフィズを頼んだ。マスターは頷き、少ししてプレリュードフィズをカウンターに置いた。
静寂が流れた。
女はプレリュードフィズの表面で弾ける泡を眺めていた。男はさっきの言葉を反芻しながら、グラスの中の氷を少し揺らした。
「よく来るの?」
「ここですか? 週に一、二度は」
「一人で?」
「ええ。妻は酒を飲まないもので」
女は視線を、男の左手に落とした。結婚指輪は、バーの照明を受けてほのかに光っていた。
「結婚しているのね」
「三年ほど前に。よくできた妻ですよ」
「幸せ?」
「もちろん」
男はスクリュードライバーを一口飲んだ。
「ただ、毎日同じような生活では退屈ですからね。たまには一人で飲みに来て、知らない人と話すくらいはいいでしょう」
「知らない女と?」
「あなたのように美しい人なら、なおさら」
女は笑わなかった。
「奥さんは、あなたがほかの女と飲んでいても気にしないの?」
「知られなければ、気にしようがないでしょう」
「それもそうね」
女はグラスを傾けた。赤みを帯びた酒が、暗い赤の唇を濡らした。男には少し官能的に見えた。
「昔からそういう人だった?」
「そういう人?」
「退屈したら、隣にいる人を替える人」
「ずいぶんな言い草ですね」
「違った?」
男は酒が回り始めているのを感じていた。
「若い頃はそれなりに遊びましたよ。付き合っていた女も何人かいました」
「顔は覚えてる?」
「もう随分前のことですからね、どうでしょう」
「名前は?」
「いちいち覚えていませんよ」
女は初めて笑った。
口元だけの、ひどく静かな笑みだった。
「捨てた女のことも?」
男は少し黙ってから答えた。
「終わった相手を覚えていても仕方ないでしょう。向こうだって、今頃は別の男と幸せに暮らしているかもしれない」
「そういうものかしら」
「そういうものでしょう」
そうして、二人はグラスを同時に傾けた。
「奥さんはどういう人?」
「よくできた人ですよ、酒に付き合ってくれないことを除けば。ろくでもなかった俺を救ってくれた」
「愛してるのね」
「ええ、世界で一番」
「そう」
女の持つグラスの中で、残った酒がかすかに震えていた。男は気づかずにグラスに口を近づけた。
「今度は、ちゃんと会ってみたいわね」
女はプレリュードフィズを飲み干し、代金をカウンターに置き、立ち上がった。
「もう帰るんですか?」
「ええ、これから人と会う用事があって」
「こんな夜遅くに?」
「女には色々とあるのよ」
女はマスターに軽く頭を下げた。
「それじゃあ、また」
去り際に男にそう告げ、店を出ていった。
扉が閉まると、男は残っていた酒を飲み干した。
「不思議な人でしたね」
マスターは答えなかった。閉じた扉を見たまま、女のグラスを片付けた。
「いいんですか?」
「妻がいるのに手は出しませんよ」
「いや……すみません、忘れてください」
◇ ◇ ◇
店を出た女は、迷いのない足取りで住宅街に入ると、ある白い壁の家で足を止めた。二階の窓には明かりがついていた。
女は左右を見渡し、後ろを振り返り、その家の門をくぐっていった。
二階の明かりが消えた頃、バーには男のグラスの中で氷が触れ合う音だけが響いていた。




