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ある二人の会話

掲載日:2026/08/06

 男には行きつけのバーがあった。


 一本脚のカウンターチェアが七席だけ並ぶ小さなバーだった。半円状のカウンターの内側では、マスターがいつも穏やかに酒を作っていた。


 そのカウンターチェアの色はとても変わっていて、奥から、黒ずんだ赤、琥珀のような橙、くすんだ黄、深い緑、淡い水色、濃い青、艶のある紫の席があった。マスターの趣味なのかもしれない。男はいつも青色の席に座って、スクリュードライバーを傾けていた。


 男とマスターだけの店内に、女が入ってきた。


 首元まで隠れた黒に近い濃紺のワンピースを着ていて、腰の位置は細く絞られている。比較的簡素な見た目だが、胸元に留めた銀のブローチが印象的だった。表面には小さな傷があり、長く使われてきたことがうかがえた。


 美しい。男は一目でそう思った。


 小さな花をかたどったブローチに見覚えがあった気がしたが、そうした考えは女の美しさに流されていった。


 女は店内を少し見て、男を認め、緑色の席に座った。そして男に話しかけた。


「私のこと、覚えてる?」


 女の言葉に、男は少し面食らった。


「いいや。どこかでお会いしましたか? あなたのような人、会っていたら忘れるはずがない」


「そう」


 女はマスターにプレリュードフィズを頼んだ。マスターは頷き、少ししてプレリュードフィズをカウンターに置いた。


 静寂が流れた。


 女はプレリュードフィズの表面で弾ける泡を眺めていた。男はさっきの言葉を反芻しながら、グラスの中の氷を少し揺らした。


「よく来るの?」


「ここですか? 週に一、二度は」


「一人で?」


「ええ。妻は酒を飲まないもので」


 女は視線を、男の左手に落とした。結婚指輪は、バーの照明を受けてほのかに光っていた。


「結婚しているのね」


「三年ほど前に。よくできた妻ですよ」


「幸せ?」


「もちろん」


 男はスクリュードライバーを一口飲んだ。


「ただ、毎日同じような生活では退屈ですからね。たまには一人で飲みに来て、知らない人と話すくらいはいいでしょう」


「知らない女と?」


「あなたのように美しい人なら、なおさら」


 女は笑わなかった。


「奥さんは、あなたがほかの女と飲んでいても気にしないの?」


「知られなければ、気にしようがないでしょう」


「それもそうね」


 女はグラスを傾けた。赤みを帯びた酒が、暗い赤の唇を濡らした。男には少し官能的に見えた。


「昔からそういう人だった?」


「そういう人?」


「退屈したら、隣にいる人を替える人」


「ずいぶんな言い草ですね」


「違った?」


 男は酒が回り始めているのを感じていた。


「若い頃はそれなりに遊びましたよ。付き合っていた女も何人かいました」


「顔は覚えてる?」


「もう随分前のことですからね、どうでしょう」


「名前は?」


「いちいち覚えていませんよ」


 女は初めて笑った。


 口元だけの、ひどく静かな笑みだった。


「捨てた女のことも?」


 男は少し黙ってから答えた。


「終わった相手を覚えていても仕方ないでしょう。向こうだって、今頃は別の男と幸せに暮らしているかもしれない」


「そういうものかしら」


「そういうものでしょう」


 そうして、二人はグラスを同時に傾けた。


「奥さんはどういう人?」


「よくできた人ですよ、酒に付き合ってくれないことを除けば。ろくでもなかった俺を救ってくれた」


「愛してるのね」


「ええ、世界で一番」


「そう」


 女の持つグラスの中で、残った酒がかすかに震えていた。男は気づかずにグラスに口を近づけた。


「今度は、ちゃんと会ってみたいわね」


 女はプレリュードフィズを飲み干し、代金をカウンターに置き、立ち上がった。


「もう帰るんですか?」


「ええ、これから人と会う用事があって」


「こんな夜遅くに?」


「女には色々とあるのよ」


 女はマスターに軽く頭を下げた。


「それじゃあ、また」


 去り際に男にそう告げ、店を出ていった。


 扉が閉まると、男は残っていた酒を飲み干した。


「不思議な人でしたね」


 マスターは答えなかった。閉じた扉を見たまま、女のグラスを片付けた。


「いいんですか?」


「妻がいるのに手は出しませんよ」


「いや……すみません、忘れてください」


◇ ◇ ◇


 店を出た女は、迷いのない足取りで住宅街に入ると、ある白い壁の家で足を止めた。二階の窓には明かりがついていた。


 女は左右を見渡し、後ろを振り返り、その家の門をくぐっていった。


 二階の明かりが消えた頃、バーには男のグラスの中で氷が触れ合う音だけが響いていた。

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