第7章:光より遠い君へ
朝の空は晴れていたが、街には昨夜の雨の痕跡が残っていた。高架の影に沿って細い水たまりが伸び、通り過ぎる車の風がその表面を震わせるたびに、ビルの輪郭が細かく崩れていた。
世織は、目黒駅の改札を抜けたところで悠澄から届いた短いメッセージを読んだ。
「今日は少し遅れる」
理由は書かれていなかった。
いつもなら、数日前まで何も考えずに待てたはずの場所へ。しかし、転職の話をしてから、暮らしの変化に敏感になった心は、わずかな遅れにも意味を探そうとしていた。
世織は駅前へ出ずに柱の近くへ寄った。地下から吹き上がる風には鉄とほこりのにおいが混じり、階段を上がってくる人の足音が天井の低い空間に硬く反響していた。
昨夜、面談に持っていく資料を整えながら眠りに就いた。古い柱の傷、剥がした壁紙の裏側、光の入り方を確かめるために何度も書き直した線は、朝になっても頭の中に残っていた。
不安は消えていなかった。
けれど、以前とは違っていた。
怖いままでも進めると知ったからだった。
人の流れが一度薄くなったところで、悠澄が改札の向こうから現れた。白いシャツの襟元はいつもより少し乱れ、片手には薄い封筒が握られていた。
世織を見つけると、悠澄は歩調を速めた。
「ごめん」
「走っていないね」
「約束したから」
「ちゃんと覚えてたんだ」
「世織に怒られたくないし」
悠澄は笑ったが、呼吸の奥には普段と違う硬さが残っていた。封筒を持つ指に力が入って、紙の端がわずかに曲がっていた。
「何かあった?」
世織が尋ねると、悠澄の笑みが薄れた。
「話したいことがある」
「今?」
「歩きながらでもいい?」
その声を聞いた瞬間、世織は内容を知らないまま胸の内側が冷えるのを感じた。悪い話ではないかもしれないのに、悠澄が言葉を選んでいることだけで朝の景色から少し色味が失われた。
駅前へ出ると、雨に洗われた舗装が強い光を反射していた。濡れた道路から立ち上る熱気には排気と樹木の匂いが混ざり、空気の透明さとは反対に足元だけが重く湿っていた。
いつもの坂へ入らず、悠澄は駅の裏手へ続く細い歩道を選んだ。
世織も何も言わずに隣に並んだ。
建物の間を抜ける道には朝の光がまだ届かず、室外機の低い音と店の奥で食器を動かす気配だけが聞こえる。表通りの人波から離れるにつれ、言葉を避ける余地はなくなっていく。
「海外の仕事を頼まれた」
悠澄が言った。
世織は足を止めなかった。
すぐに意味は理解したはずなのに、身体の奥底に響くには少し時間がかかった。外国、長い移動、時差、見知らぬ街という断片だけが先に浮かんだ。どれも悠澄の輪郭からはかけ離れていた。
「どこ?」
「北欧」
「いつから?」
「まだ決まっていない。受けるなら、秋が深まる前には向こうへ行く」
悠澄は前を見たまま答えた。
「どのくらい?」
「短くて半年、延びれば一年くらい」
半年。
一年。
世織は、数字で時間を測ることを普段はあまり好まないが、今だけは、その長さが冷たい単位となって胸に響いた。
夏が終わる。
秋の風が冷たくなり、冬の朝が来て、桜の気配が戻っても、悠澄はいないかもしれない。毎朝歩いてきた坂道、そして季節だけを変えながら残る光景が目に浮かんだ。
「受けたいの?」
と世織は尋ねた。
「分からない」
「分からないって?」
「やりたい仕事ではある」
悠澄は封筒を持ち直した。
「古い公共施設を文化施設に変える計画で、現地の光を生かした設計をする。昼が短い季節も含めて、その土地の明るさを建物に残す仕事なんだ」
話している声にわずかな熱が宿った。
それだけで世織には分かった。
悠澄は惹かれている。
迷っているのは仕事の内容ではない。
「行きたいんでしょう」
世織がそう言うと、悠澄は答えなかった。
路地の奥で配送用の台車が金属音を立て、積まれた箱が揺れた。すると、乾いた紙の匂いが朝の湿気に混ざって流れ込んできた。
「世織と再会する前なら、迷わなかった」
やがて悠澄が言った。
「話が来た日に返事をしてたと思う」
胸に鈍い痛みが広がった。
必要とされていることを嬉しいと思う一方で、自分が悠澄の足を止めているようにも思えた。昨日まで未来を選ぶ世織を止めないと言っていた人が、今度は自分の前で立ち止まっている。
「私のせいにしないで」
声が少し強くなった。
悠澄が世織を見た。
「していないよ」
「再会したから迷うって言った」
「それは本当だから」
「なら、私がいなければよかったみたいに聞こえる」
「違う」
悠澄は足を止めた。
日陰の路地に、表通りから反射した光が細く差し込んでいた。向かい合う足元の間に、昨夜の雨がつくった浅い流れが通り過ぎていく。
「世織がいなければ、迷わず行けた」
悠澄は言葉を区切った。
「でも、それはよかったという意味じゃない。戻りたい場所がないまま、どこへでも行けたというだけだから」
世織は何も言えなかった。
「今は、世織がいる」
悠澄の声は低く、路地の静けさにまっすぐと響いた。
「だから、行きたい気持ちと離れたくない気持ちが、同じくらいある」
朝の空気が急に狭く感じられた。
世織は昨日、自分の転職について同じようなことを話していた。新しい場所を見たい気持ちと悠澄との朝を失いたくない思いのどちらも、本当だと認めた。
今度は、その揺れを悠澄が抱えている。
「私は、どう言えばいい?」
と世織は尋ねた。
「何を?」
「行ってほしいと言うのか、行かないでと言うのか」
悠澄は目を伏せた。
「どちらも言ってほしくない」
「ずるいね」
「分かってる」
「じゃあ、どうして話したの?」
世織の声がわずかに震えた。
「私に何も言わせないなら、一人で決めればいいでしょう」
悠澄は封筒を握ったまま黙っていた。
世織は胸に湧いた苛立ちを抑えられなかった。昨日は、怖いときも分からないときも、話してほしいと言われた。
だから悠澄も話したのだろう。
しかし、聞かされた側に残る痛みまで、すぐに受け止められるわけではない。
「世織の気持ちを知りたかった」
悠澄が言った。
「知ってどうするの?」
「決めるときに、なかったことにしたくない」
「私が行かないでって言ったら?」
「たぶん、行けなくなる」
迷いのない返事だった。
世織の胸が強く締め付けられた。
「だから言えない」
「言ってもいいよ」
「言えないよ」
世織は首を横に振った。
「悠澄がやりたい仕事を、私の一言で諦めさせたくない」
「俺は、諦めさせられたとは思わないかもしれない」
「今はそうでも、いつかそう思うかもしれない」
昨日、悠澄が口にした恐れをそのまま返していることに気づいた。
相手の未来を狭めたくない。
近くにいてほしいと望んだ結果、自分の存在が後悔へと変わるのが怖い。
同じ場所に立ったことで、悠澄が昨日何を恐れていたのかを、世織はようやく体で理解した。
「世織」
名前を呼ばれても、顔を上げることができなかった。
日陰の壁には雨に濡れた色がまだ残っており、換気口から吐き出された温かい風が当たって湿ったコンクリートの匂いが路地に広がっていた。
「行ってほしくない」
世織は小さく言った。
悠澄は息を止めた。
「本当は、行ってほしくない」
一度口にすると、押し戻せなかった。
「半年も一年も会えないなんて嫌だし、知らない街で悠澄の時間だけが進むのも嫌。朝にいないことを想像しただけで、もう寂しい」
声が震えた。
「でも、それを理由に仕事を捨ててほしくない」
悠澄は何も言わなかった。
世織はようやく顔を上げた。
「矛盾しているでしょう」
「していないよ」
「してる」
「人の気持ちは片方だけじゃない」
それは、昨日世織自身が考えたことと同じだった。
新しい場所を見たい。
今の場所も失いたくない。
悠澄にも行ってほしくない。
けれど、行きたい気持ちを大切にしてほしい。
どれか一つを嘘にしなければならないわけではない。
「俺も同じだよ」
悠澄は言った。
「行きたい。世織のそばにもいたい」
「なら、どうするの?」
「まだ決められない」
それは正直な声だった。
世織は唇を結んだ。
答えが出ないことに苛立っているわけではない。決まっていない未来へ自分の心だけが先に引き離されていくことが、怖かったのだ。
「返事はいつまで?」
「数日以内」
「面談の日より前?」
「たぶん同じころ」
世織の面談。
悠澄の返事。
別々の未来が同じ時期に扉を開こうとしている。再会して間もない時間へ変化だけが急ぎ足で近づいていた。
「今日は仕事へ行かなきゃ」
世織が言った。
話を終わらせたいわけではなかった。
けれど、このまま立っていると、行かないでと繰り返してしまいそうだった。悠澄もそれを察したのか、追いかけるような言葉はかけなかった。
「うん」
「夜、話せる?」
「話したい」
「まだ決めないで」
世織は悠澄を見つめた。
「今日の夜までは返事を待って」
「分かった」
約束を確かめるように悠澄はうなずいた。
世織は、手を伸ばしそうになりながら動けなかった。昨夜までなら自然に触れられた指が、今朝は相手を引き止める鎖になる気がした。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
悠澄の声が背中に届いた。
世織は振り返らず、路地の先へ歩き出した。
表通りへ戻ると、朝の光が一気に視界を満たした。車の窓がまぶしく反射し、信号を待つ人々の影が歩道へ濃く伸びていた。
街は何も知らない。
誰かが遠い国へ行くかもしれないことも、残されるかもしれない心も知らず、同じ速さで昼へ向かっていた。
事務所に入ると、空調の乾いた匂いが肌にまとわりついた。机の上には面談用の資料が積まれ、古い建物の写真が朝の光を受けていた。
世織は椅子に座ったが、資料を開くことができなかった。
悠澄が見るという北の光を想像した。
昼の短い季節。
低い角度から差す日差し。
雪に反射する白さ。
窓の奥に残る人工の灯り。
照明を仕事にしている悠澄にとって、そこはきっと魅力的な場所なのだろう。東京では知ることのできない光に触れ、知らなかった技術を身につけて帰ってくる。
帰ってくる。
その言葉を胸の中で繰り返した。
半年でも一年でも、終わりがある。
しかし、戻れると約束されているわけではない。仕事が延びるかもしれないし、向こうで新しい道が開けるかもしれない。
人は変わる。
世織自身も面談を受けた先で変わる可能性がある。
変化しないことを約束すれば、いつか互いを苦しめることになる。それでも、変わっても会いたいという気持ちは今確かに持っていた。
世織は端末を手に取った。
悠澄に何か送りたいと思ったが、言葉が見つからない。「行かないで」と書けば重すぎるし、「行ってきて」と書けば自分の気持ちに嘘をつくことになる。
画面を伏せて資料に手を伸ばした。
面談で見せる写真を選び直す。
古い住宅の窓。
光を通す格子。
傷を残した柱。
どれも失わずに変えるための仕事だった。
建物は人よりも素直なのかもしれない。
残せるものと壊さなければならないものが目に見える。柱の強度を測り、光の角度を確かめれば選択の理由を図面に落とせる。
人の関係には正確な数値がない。
離れることが壊れることなのか、近くにいることが守ることなのかさえ、始まってみなければ分からない。
世織は鉛筆を持った。
面談で話したいことを記した紙に一行だけ書き足した。
場所が変わっても、残るものを設計したい。
仕事の言葉として書いたはずなのに、悠澄の顔が浮かんだ。
午前の光が机から床に移るころ、世織は現場に向かった。
改装中の住宅では窓辺の格子が取り付けられ、古い柱の補修が始まっていた。削られた木の粉が床に薄く積もっており、室内には乾いた香りが漂っていた。
世織は柱に手を当てた。
表面の傷は残っていた。
新しい木材が脇から支え、弱った部分だけを補っている。古さと新しさの境目は隠されず、近づけば明確に分かる。
完璧に一つに見せないことがかえって誠実に思えた。
違う時間を生きたものが同じ建物を支えている。
悠澄が遠い場所へ行けば、同じ時間を共有できなくなる。
東京の朝と北の国の夜。
湿った夏と乾いた寒さ。
別々の景色が、それぞれの身体に積もる。
戻ったとき、再会した今のままではいられないだろう。
それでも、異なる時間を持ったまま隣に立つことはできるのかもしれない。
世織は、指先についた木の粉を払った。
粉は空中に舞い上がり、窓から差し込む光の中で短く輝いた。目には見えないほど細かいものが、明るさに触れた瞬間だけ輪郭を持った。
言葉も似ている。
胸の内側にあるうちは形がなく、相手に渡して初めて、自分がどんな気持ちだったのか見える。
行ってほしくない、と伝えた。
それは悠澄の未来を奪うための言葉ではない。
離れることが怖いと知ってほしかっただけだ。
昼の熱が街路を満たすころ、世織は現場を出た。頭上では雲が大きく膨らみ、白い縁だけが強い日差しを受けていた。
冷たい飲み物を買い、日陰で一口飲んだ。
舌に広がる苦味が乾いた喉をゆっくりと通り抜けた。悠澄も仕事をしているのだろうか、それとも封筒の内容を読み返しているのだろうか、と考えた。
端末を開くと、連絡が届いていた。
「朝は話してくれてありがとう」
それだけだった。
世織はメッセージを何度か読み返して、返事を打った。
「まだ行ってほしくないと思ってる」
送信したあと、胸が大きく鳴った。
すぐに返信が来た。
「うん」
続けて、もう一つ届いた。
「俺も離れたくない」
短いメッセージのなかに、答えの出ない苦しさがそのまま表れていた。
世織は、画面に指を置いたまま考えた。
「でも、仕事の話をしてる悠澄は嬉しそうだった」
送った。
返事が来るまで少し間があった。
「行きたいと思ってる」
世織は目を閉じた。
痛かった。
けれど、正直に言われたことはうれしかった。
「夜、続きを話そう」
そう返して端末を鞄にしまった。
事務所に戻ると、窓の外には夏の明るさが白く立ちこめていた。建物の輪郭は熱に揺れ、遠くの車は音だけを残してかすんでいた。
世織は面談資料を整え直した。
自分の未来が悠澄の選択だけに左右されてはいけない。悠澄が残るなら面談を受け、行くなら辞退するという関係では、互いの仕事を感情の人質にしてしまう。
世織は面談へ行く。
どんな結果になっても、自分で選ぶ。
その上で、悠澄にも自分で選んでほしい。
そう考えると、少しだけ呼吸がしやすくなった。
けれど、正しさが寂しさを消してくれるわけではなかった。
午後の影が窓枠に近づくにつれ、悠澄のいない季節が何度も思い浮かんだ。仕事を終えても連絡できる時間が違い、触れたいと思っても画面の向こうにしかいない。
世織は鉛筆を置いた。
遠距離という言葉を、頭の中で初めて使った。
まだ恋人と呼べる関係なのかも分からない。好きだったと告げられ、手をつなぎ、額に触れられた。
今の気持ちを世織はまだ言っていない。
言わないまま悠澄が行ってしまったら、何を信じて待てばいいのだろう。
そして、悠澄は何を信じて帰ってくるのだろう。
世織は自分の胸に問いかけた。
好きなのか。
答えはもう分かっている。
認めた後に起こることが怖くて、言葉だけを先延ばしにしていた。
悠澄がいなくなるかもしれないから伝えるのでは、引き止めるための告白になってしまう。それも違う気がした。
けれど、離れる可能性が現れたことで、言わなくても伝わるという甘えは崩れ去った。
時間はいつまでも続かない。
朝の坂道も夜の帰り道も、同じ形のまま残るわけではない。
それなら、言葉にできるときに伝えるべきなのかもしれない。
窓に映った自分の顔は、思っていたよりも疲れていた。
世織は頬に手を当て、悠澄が額に触れた夜を思い出した。温度よりも、触れる前に何度も確認した声が残っている。
世織が選べるように悠澄は待った。
今度は世織が悠澄に選択を返さなければならない。
ただし、気持ちを隠したままではなく。
外の光が少しずつ金色を含み始めたころ、世織は仕事を終えた。
待ち合わせ場所は、駅でも坂道でもなかった。
世織が指定したのは、都心の建物の屋上にある小さな庭だった。以前仕事の参考に訪れた場所で、植栽の間に細い通路があり、街の高い位置を風だけが自由に抜けていく場所だった。
悠澄は先に来ていた。
低い柵の近くで夕暮れに向かう街並みを眺めていた。仕事帰りのシャツには一日の皺が残り、風が吹くたびに背中の布がわずかに膨らんだ。
世織が近づくと、悠澄は振り返った。
「ここ、初めて来た」
「私も久しぶり」
「静かだね」
「下の音が遠くなるから」
足元では、小さな草が風に倒れて細い葉が触れ合い、乾いた音を立てていた。道路の車の音は低く混ざり、街全体が厚い床の下で動いているかのように聞こえた。
並んで柵のそばへ立った。
空には夕暮れの赤みが残っており、遠くの建物から一つずつ明かりが灯り始めていた。東京の明かりは一斉に灯るのではなく、誰かが部屋へ入り、仕事を続け、帰りを待つたびにばらばらと増えていく。
「返事、どうする?」
と世織が尋ねた。
「まだ決めてない」
「何がいちばん怖い?」
悠澄はすぐには答えなかった。
風が髪を乱し、目元に影を落とした。世織は手を伸ばしかけたが、今は触れずに待った。
「帰ってきたとき、世織の隣に場所がないこと」
悠澄の声は小さかった。
「世織が新しい仕事を選んで、新しい人に会って、俺が知らない生活を作る。そのなかで俺が過去の人になるのが怖い」
世織の胸が痛んだ。
大学を卒業した頃と同じ恐れだった。
知らない場所へ行った世織が悠澄を必要としなくなること、そして、数年を経て再会してもその不安は完全には消えていないこと。
「私も怖い」
世織は言った。
「向こうで悠澄が私の知らない景色を好きになること、そして、帰りたい場所まで変わってしまうこと」
悠澄は、遠くの空に目を向けた。
「変わらないって約束はできない」
「うん」
「世織にも、変わらないでとは言えない」
「分かってる」
「でも」
悠澄は言葉を止めた。
夕暮れの最後の色が建物の窓に薄く残っていた。悠澄は、その光を見つめながら低く息を吐いた。
「変わった後にも、世織を選びたいとは思っている」
世織は横顔を見た。
「思ってるだけ?」
「約束すると、世織を縛る気がする」
「また私のために言わないの?」
悠澄が世織に顔を向けた。
「縛られるかどうかは、私が決める」
朝に交わした言葉と同じだった。
気持ちを隠した優しさは相手から選ぶ権利を奪うことがある。悠澄もそれを理解し始めているはずだった。
「じゃあ、言う」
悠澄は一度目を閉じた。
「向こうへ行っても、世織と終わりたくない」
風の音が耳の近くを通り過ぎた。
「毎日会えなくても、同じ朝を歩けなくても、戻ってくる場所に世織がいてほしい」
世織は唇を結んだ。
胸の奥にたまった感情が大きすぎて、すぐには声にならない。喜びだけではなく、怖さと寂しさも一緒に込み上げていた。
「私も言うことがある」
世織は柵から離れて悠澄の方を向いた。
悠澄も身体の向きを変えた。
沈みかけた光の中で、向かい合う影が足元へ長く伸びていた。街の音は遠く、聞こえるのは重なりきらない呼吸音だけだった。
「私、悠澄が好き」
言葉は静かに出た。
もっと震えると思っていた。
泣くかもしれないとも考えていた。
しかし実際には、長く胸に抱えていたものがようやくあるべき場所へ収まったような感覚があった。
悠澄は動かなかった。
世織の顔を見つめたまま、呼吸さえ忘れているかのように見えた。
「聞こえた?」
世織が尋ねると、悠澄は小さくうなずいた。
「もう一度、聞きたい」
「一度で覚えて」
「大事だから」
声が掠れていた。
世織は少し笑った。
「悠澄が好き」
今度は、はっきりとそう言った。
悠澄の目元が揺れた。
嬉しい時のように息を吐こうとしてうまくできず、唇を閉じた。それは、世織が初めて見る表情だった。
「何か言って」
「忘れようとした日は、一日もなかった」
世織の胸の奥が熱くなった。
悠澄は続けた。
「大学を出た後も、会わなくなってからも、世織を忘れようとした日はなかった」
言えない言葉の核心が夕暮れの空気に差し出された。
世織は一歩近づいた。
「それなら、どうして連絡しなかったの?」
「会ったらまた好きになると思った」
「もう好きだったんでしょう」
「そうだね」
悠澄は困ったように笑った。
「忘れられないのに、忘れようとしていたんだ」
「遠回りだね」
「世織もでしょう?」
「否定できない」
肩先の距離が縮まった。
世織は悠澄のシャツに指を触れた。胸元の布には仕事を終えた後の温度が残り、その奥で心臓が速く鳴っていた。
「向こうへ行くの?」
悠澄が答えるまで、長い間があった。
「行きたい」
世織はうなずいた。
痛みはあった。
けれど、好きだと伝えた後で聞いたその言葉は、朝とは違って聞こえた。世織から逃げるためではなく、自分の仕事を選ぶための言葉だとわかった。
「行ってきて」
声が少し震えた。
悠澄の表情が歪んだ。
「本当に?」
「行ってほしくない気持ちは変わらない」
世織は正直に言った。
「寂しいし、嫌だと思う。でも、悠澄が見たい光を私が閉じたくない」
「世織」
「ただし、帰ってきて」
悠澄の目に、はっきりと熱が宿った。
「帰ってくる」
「約束できる?」
「仕事が延びることはあるかもしれない」
「そういうことじゃない」
世織は首を横に振った。
「時間が延びても、知らない景色を好きになっても、私に会うために帰ってきて」
悠澄は迷わなかった。
「帰ってくる」
世織の胸から張り詰めていた息が抜けた。
「私も、待っているだけにはならない」
「どういう意味?」
「自分の仕事を選ぶ。面談を受けて、行きたいと思ったら私も新しい場所へ進む」
「うん」
「帰ってきたとき、同じ私じゃないかもしれない」
「それでいい」
悠澄は答えた。
「変わった世織にまた会いたい」
風が屋上の草を大きく倒した。
街の明かりが増え、夕暮れと夜の境目がゆっくりと溶けていく。遠くの窓にはそれぞれ異なる色の灯りが浮かんでいた。
「触れていい?」
悠澄が尋ねた。
世織はうなずいた。
悠澄の手が頬に触れた。
今までより迷いの少ない動きだったが、指先には確かめるような慎重さが残っていた。親指が目元の近くをなぞり、風で乱れた髪を耳の後ろに寄せた。
「世織」
「うん」
「好きだよ」
世織は目を閉じなかった。
近づく悠澄の顔を見つめたまま呼吸を整え、額に触れた夜とは違い、次に何が起こるか分かっていた。
「嫌だったら言って」
「言わない」
悠澄の息が近づいた。
唇が触れた。
軽く確かめるだけの短い口づけだった。
柔らかな温度が離れた後も、世織は動けなかった。風に冷えた頬とは反対に、唇だけが熱を持っていた。
悠澄もすぐには言葉を発しなかった。
互いの呼吸が近い場所で混じり合い、街の明かりが瞳の奥に細かく映っていた。
「もう一度、いい?」
悠澄が尋ねた。
「何度も聞くね」
「大事だから」
世織は小さく笑った。
「いいよ」
次の口づけは、先ほどより長かった。
急がず、深く求めすぎず、離れていた年月のすべてを埋めようともしない、ただいま触れていることを覚えるような、静かな口づけだった。
世織は悠澄のシャツを掴んだ。
体が離れないためではなく、ここにいることを確かめるためだった。悠澄の手が頬から首筋へ移り、触れる場所を選ぶようにゆっくりと止まった。
唇が離れると、世織は浅く息を吸った。
「行く前に、こうなると思わなかった」
世織がそう言うと、悠澄は苦く笑った。
「行くから言わせたみたいで嫌だった」
「違うよ」
「本当に?」
「今日じゃなくても、言うつもりだった」
それが完全な真実かどうかは分からなかった。
離れる話がなければもう少し先延ばしにしていたかもしれないが、好きだという気持ちは海外の話によって生まれたものではない。
「悠澄がいなくなるから好きなんじゃない」
と、世織は言った。
「いなくなってほしくないと思ったから、好きだって認めたの」
悠澄は、世織の額に自分の額を近づけた。
「行きたくなくなる」
「行って」
「冷たいね」
「私も面談に行くから」
「それと同じ?」
「同じだよ」
互いの仕事を選び、離れるかもしれない未来まで引き受ける。
それは、近くにいることだけを望むよりも難しいことだ。しかし、相手の光を消してまで守るような関係にはしたくなかった。
「いつ返事をする?」
と世織が尋ねた。
「今夜」
「私も面談の準備をする」
「終わった後、会おう」
「うん」
「結果がどうであれ?」
「どんな顔でも会うって言ったでしょう」
悠澄は笑った。
「覚えてたんだ」
「大事なことは覚えている」
世織は悠澄の言葉を借りた。
その表情が柔らかくほどけた。
空から夕暮れの色が消え、屋上の足元灯が淡く灯った。植栽の影が通路に細長く伸び、葉の表面だけが白く浮かび上がっている。
「少し歩こうか」
悠澄が言った。
「ここを?」
「まだ帰りたくない」
世織はうなずいた。
肩を並べて細い通路をゆっくり歩いた。
足元の砂利が靴の下で小さく鳴り、草の香りが夜気に溶けている。手をつなぐまでの時間は短く、どちらからともなく指先が触れ、そのまま掌が重なった。
朝とは違う。
離れる話を聞く前の関係には戻れない。
けれど、壊れたわけでもなかった。
むしろ、失う可能性に触れたことで曖昧だった気持ちに輪郭ができた。世織は悠澄の手を握りながら、別れを先取りして泣くのではなくまだある時間を生きたいと思った。
「いつ行くか決まったら教えて」
「すぐに言う」
「準備も手伝う」
「世織が?」
「何?」
「引き止めるために鞄を隠すかもしれない」
「そんなことしない」
「少し期待した」
「困るでしょう」
「困るけど、嬉しいかも」
世織は笑った。
「じゃあ、靴下を一枚だけ隠す」
「一枚だと余計に困る」
「帰ってきたら返す」
冗談の中に、帰ってくるという約束があった。
悠澄もそれに気づいたらしく、つないだ手に少し力を込めた。
「必ず取りに戻る」
「靴下のために?」
「世織に会うために」
短い言葉なのに胸にまっすぐ届いた。
屋上を一周して出入り口の近くに戻った。
下へ降りれば、人の流れと電車の音がする。別々の部屋へ戻り、悠澄は返事を送り、世織は面談資料に向き合った。
「今日、終わってほしくない」
と、世織は正直に言った。
「俺も」
「でも、帰らなきゃね」
「うん」
悠澄は、つないだ手を見た。
「帰る前に、もう一度いい?」
何を意味しているのか、もう尋ねなかった。
世織は少しだけ顔を上げた。
悠澄の手が頬に触れ、唇が重なった。
夜の風が背中を通り過ぎても、触れた場所だけが温かかった。離れてから、世織は悠澄の胸元に額を預けた。
「寂しい」
言葉が布に吸い込まれた。
悠澄の腕が世織の背中へ回った。
「俺も」
「毎日言うかもしれない」
「言って」
「仕事中でも?」
「返事ができなくても、読む」
「向こうが夜でも?」
「起きたら読む」
「面倒になるかも」
「ならないよ」
「まだ分からないでしょう」
「分からないけど、面倒だと思ったらそれも言う」
世織は少し笑った。
「正直すぎる」
「隠さないって決めたから」
悠澄の胸元から鼓動が伝わってきた。
世織は目を閉じた。
遠い土地へ向かう話をした夜なのに、これまでで一番近くにいる。距離とは身体の近さだけでは測れないものなのだ。
しばらくして、肩を抱く腕がゆっくりと離れた。
世織も体を起こした。
「行こうか」
「うん」
エレベーターで下へ降りる間、手は離れなかった。
鏡張りの壁には並んだ姿が映っており、仕事帰りの皺が残る服、風に乱れた髪、そしてつながった指が照明の白さの中で現実のものとして見えた。
地上に出ると、東京の夜は濃い熱を抱えていた。
飲食店から漂う香辛料の香りと車道を走る車の排気ガスが混ざり合い、ビルの入口から吐き出される冷気が足元を撫でるように通り過ぎた。人の声が近づいてきても、世織は悠澄の手を離さなかった。
駅までの道をゆっくり歩いた。
帰宅を急ぐ人の影が次々と追い越していく中、向かい合っていた時間を胸に残したまま、並んだ歩幅だけが夜の流れから少し遅れていた。
「明日の朝は会える?」
悠澄が尋ねた。
「会えるよ」
「その次も?」
「出発するまでは」
世織はそう答えた後、言い直した。
「出発しても、画面では会えるよ」
悠澄が笑った。
「世織から言ってくれるんだ」
「嫌ならやめる」
「毎日でもいい」
「毎日は難しいかもしれない」
「無理な日は言って」
「悠澄もね」
「約束する」
駅の入口が見えてきた。
明るい構内へ続く階段の前で足が自然に止まった。以前なら別れの言葉を探す場所だったが、今夜はその先にある時間まで決まっている。
「返事をしたら連絡して」
と世織が言った。
「すぐにする」
「眠っていても起きるから」
「眠ってていいよ」
「待ってる」
悠澄は一瞬目を伏せた。
「待っている」という言葉が以前より深い意味を持つようになった。帰国までただ時間を止めるのではなく、それぞれの暮らしを進めながらまた会う場所を残す。
「世織」
「何?」
「好きだよ」
人の流れが近くを通り過ぎた。
世織は恥ずかしさを感じながらも視線を逸らさなかった。
「私も好き」
声に出すと、もう怖くはなかった。
悠澄の目元が柔らかくなった。
つないだ手が離れても、指先だけが最後まで触れ合っていた。階段を下りる前に世織は振り返り、悠澄が同じ場所に立っているのを確かめた。
今度は見送られるだけではなかった。
悠澄もまた、遠い場所へ向かおうとしている。
世織は小さくうなずき、駅の明るさの中へ入った。
帰宅した部屋には昼の熱が壁の奥に残っていた。冷房をつけずに窓を開けると、高い建物の隙間から乾いた風が入り、机に広げた資料の端を揺らした。
世織は屋上で交わした言葉を思い返しながら面談の準備をした。
好きだと伝えた。
悠澄も、忘れようとした日は一日もなかったと言った。
海外へ行くことを決めたわけではないけれど、たぶん行くのだろうと世織は分かっていた。
その予感に胸が痛んだ。
同時に、悠澄が新しい光の中で仕事をする姿を見たいとも思った。
資料のページをめくり、自分が選んできた道を確かめる。世織もまた、知らない場所へ進もうとしている。
片方だけが未来へ向かい、もう片方が待つわけではない。
離れた場所で、それぞれが自分の仕事を選ぶ。
その先でまた会う。
簡単ではない。
けれど、それなら互いを失わずにいられる気がした。
端末が震えた。
悠澄からだった。
「返事をした」
世織の指が止まった。
続けて届いたメッセージを読む。
「行くことにした」
胸の奥が強く痛んだ。
分かっていたはずなのに、決定的な言葉は予感よりも重く感じられた。部屋の空気が薄くなったように感じられ、世織は深く息を吸った。
画面にはもう一つ、文字が表示された。
「帰ってくる。世織に会うために」
涙はすぐには出なかった。
代わりに、喉の奥が熱くなり、呼吸が細かく震えた。世織は返信欄を開いた。
何度か文字を打ち、消した。
寂しい。
行かないで。
頑張って。
待っている。
どれも本当で、一つだけでは足りなかった。
最後に、世織は簡潔に送った。
「行ってきて。帰ってくる場所は私が残しておくから」
既読がついた。
返事はすぐに来なかった。
その間、世織は画面から目を離さずにいたが、やがて新しいメッセージが表示された。
「ありがとう。必ず帰る」
世織は端末を胸元へ抱いた。
窓の外では東京の明かりが夜の底へ広がり、遠い国では別の明かりが灯り、悠澄はそこで自分の知らない季節を見るのだろう。
その光を恐れるだけではなく、いつか話してもらいたいと思った。
何を見たのか。
どんな匂いがしたのか。
どの窓に心を奪われたのか。
すべてを知ることはできなくても、悠澄が持ち帰る言葉を聞きたい。
世織は面談資料に視線を戻した。
机の上には古い柱と新しい木材が並んだ写真があった。異なる時間を持ちながら同じ建物を支えている。
離れることで別の時間を生きる。
それでも、戻ったときに隣に立てる形を探す。
それが、これからの関係なのかもしれない。
夏の夜風が紙の端を持ち上げた。
世織は手のひらで押さえ、揺れを止めたが、窓は閉めなかった。
風が入るからこそ、室内の空気は入れ替わる。
変わることを恐れながらも、閉じないでいたかった。
悠澄が遠い光の中へ進んでいくように、世織も自分の扉を開けた。
朝になれば、まだ同じ坂道を歩ける。
残された時間を数えるのではなく、そこで交わす言葉をひとつずつ増やしていきたいと思った。
世織は照明を落とした。
暗くなった部屋で端末の画面だけが淡く光り、そこには悠澄の言葉が残っていた。
必ず帰る。
世織はもう一度読み、目を閉じた。
遠くへ行くことは終わることではない。
そう信じるために、今夜は好きだと伝えたのだ、と世織は思った。




