第2章:言葉の浅瀬を歩く
翌朝、世織が目黒駅の外へ出ると、昨夜の雨は跡形もなく乾いていた。歩道にはすでに薄い熱が宿り、駅前を抜ける風だけが眠りから覚めきらない街の冷たさをわずかに残していた。空は白に近い青で、遠くの建物ほど光の中で輪郭を失っていた。
いつもなら、世織は歩きながら窓を見ていた。
しかし、その朝に限っては、坂道の先ばかりを見ていた。白いシャツに似た背中を見つけるたびに視線が止まり、違う人だと分かると、何も期待していなかったかのように足元へ目を落とした。
昨夜、また明日と言った。
あれは約束だったのだろうか。それとも、別れ際に人が自然に口にする、次の機会を曖昧に残すための挨拶だったのだろうか。
世織は左手の親指を人差し指の爪に滑らせた。
考えても答えは出ないが、考えないふりをしようにも胸の内側が落ち着かなかった。
坂の入り口に立つ街路樹の影が舗道に細く伸びており、葉の隙間からこぼれる光はまだ柔らかかった。その光は、歩く人の肩や髪に触れるたびに白い色へとほどけていった。
その影の向こうで誰かが立ち止まった。
世織は歩調を落とした。
悠澄は、街灯の柱に寄りかかるでもなくただ坂道の端に立っていた。片手には鞄を持ち、もう片方の手でスマートフォンを見ていたが、世織の気配に気づくとすぐに顔を上げた。
目が合った。
悠澄は小さく息を漏らして笑った。
「おはよう」
「おはよう」
それだけで、昨日の朝より自然に声が出た。
悠澄は画面を消して鞄にしまった。待っていたのかもしれないと思ったが、世織は聞かなかった。
「今日は早かったね」
「いつもと同じだよ」
「じゃあ、俺が遅かったのかな」
「待ってた?」
口にしてから、思ったより直接的な聞き方になったことに気づいた。
悠澄は少しだけ目を伏せた。
「待ってたと言ったら?」
風が木の葉を裏返し、光の色を変えた。
世織はすぐに答えられなかった。冗談なら笑えばいいのに、悠澄の声には軽さが足りなかった。
「困る?」
悠澄が続けた。
「……少し」
「どうして?」
「嬉しいから」
と言ってしまった後で、世織は視線を逸らした。
坂の上から自転車が下りてきて、薄い風を残しながら通り過ぎた。車輪が舗道の継ぎ目を踏む音が朝の静けさに短く響いた。
悠澄は何も言わなかった。
しかし、隣に並んだ気配が少し近づいた。肩が触れるほどではないが、昨日よりも狭い空間に言葉よりも確かな温度が残っていた。
歩き始めると、坂の傾斜が靴底にゆっくり伝わってきた。
世織は呼吸を整えながら隣の足音を聞いた。悠澄の靴音は落ち着いていて急ぐ人の速さではない。
「今日は現場?」
と世織が尋ねた。
「午前は事務所。午後から美術館の確認」
「展示替え?」
「うん。作品そのものを照らすというよりも、見ている人の視線が疲れないようにする調整」
「難しそう」
「難しいよ。明るくすれば見やすいわけでもないし、暗ければ落ち着くわけでもない」
悠澄はそう言いながら道路脇のショーウィンドウへ目を向けた。まだ開店前の店内で、照明だけが床や壁を淡く照らしていた。
「光って、置けば終わりじゃないんだね」
「空間も同じでしょう?」
世織はうなずいた。
壁や床を選び、家具を置いたからといって、それで完成するわけではない。誰かが歩き、座り、言葉を交わしたときに、ようやくその場所には温度が生まれる。
「人が入って初めて分かることのほうが多い」
「それ、照明も同じだよ」
悠澄は店内の椅子に視線を移した。
「誰もいないと、きれいに見えすぎるんだ。人が座ると影ができて顔色が変わる。そこで初めて失敗に気づくんだ」
「失敗するんだ」
「するよ」
「悠澄でも?」
「俺を何だと思ってるの?」
「昔から、失敗を隠すのだけが上手だった」
悠澄が笑った。
「隠せてなかったでしょう」
「私は気づいてた」
「世織は人のことばかり見てるから」
その言葉に、世織は少しだけ黙った。
人の変化には気づける。声の高さや視線を置く位置、返事までの短い間にも、本人が隠したいものは現れる。
けれど、自分のことになると分からない。
昨日から胸の内側にある熱は、懐かしさなのか、終わっていなかった恋なのか、世織にはまだ名前をつけられていなかった。
「悠澄は?」
「何が?」
「私を見てたって言ったでしょう」
「見てたよ」
「どうして?」
悠澄の歩みがほんの少し遅くなった。
質問の意味を測るように世織の横顔に視線を向ける。朝の光は正面からではなく建物のガラスに反射して下から差し込み、その瞳をいつもより淡く見せていた。
「見たかったから」
答えは短かった。
世織は足元の影を見た。
並んで伸びた輪郭は街路樹の葉に遮られて途切れ、次の光の中でまた現れた。離れているのか近いのか、影だけでは分からなかった。
「それだけ?」
「それ以上を言ったら、世織はまた困るでしょう」
「困るとは言ってない」
「昨日も今朝も、困った顔をしていた」
「顔に出てた?」
「出てるよ」
世織は片手で頬に触れた。
熱を持っている気がしたが、夏のせいなのか悠澄のせいなのかは判断できなかった。たぶん判断したくなかったのだ。
「昔よりわかりやすくなったかもね」
悠澄が言った。
「それは嫌だな」
「俺は嬉しいけど」
「どうして?」
「ちゃんと迷っているのが分かるから」
意味を聞こうとして、世織はやめた。
悠澄の言葉は説明されると壊れてしまう気がして、分からないまま胸にしまっておく方が今は正しいように思えた。
坂道の中ほどに差し掛かると、風の向きが変わった。
駅側から上がってきた湿った空気が建物の間で細く絞られ、髪や服の裾を揺らした。植え込みの土は乾き始め、青い葉の香りとどこかの厨房から流れてくる焦げたバターの香りが混じった。
「朝ごはん、食べた?」
悠澄が尋ねた。
「コーヒーだけ」
「それ、食べたうちに入らないでしょう」
「悠澄は?」
「パンを少し」
「少しなら同じじゃない?」
「固形物があるかどうかは大きいよ」
「何の基準?」
「俺の基準」
大学時代にも似たようなやり取りをした気がした。
作業室に泊まり込んだ朝、世織が紙コップのコーヒーだけで済ませようとしたところ、悠澄は自分が買ったパンを半分差し出した。世織が断ると、悠澄は世織が食べるまで模型に照明を当てないと宣言した。
「昔もそうやって食べろって言ってた」
「覚えてた?」
「今思い出した」
「俺は覚えてたよ」
「またそれ」
「何?」
「悠澄ばかり、昔のことを覚えているみたいに言う」
世織の声に少しだけ拗ねた響きが混じった。
悠澄は驚いたように目を見開いてから、笑った。それは、嬉しいときほど先に漏れる小さな息の音だった。
「世織も覚えてるじゃない」
「忘れてたことを思い出しただけ」
「それを覚えてるって言うんだよ」
「違う」
「どう違うの?」
答えが見つからず、世織は前を向いた。
記憶には、意識して残していたものと、思い出さないように奥底にしまっていたものがある。悠澄との時間は後者だった。
忘れたわけではない。
触れれば自分がどんな顔をするか分からなかったから、触れずにいただけだ。
歩道の端に、小さな花が落ちていた。
白い花弁は風に押されて道路へ出そうになり、また縁石に戻る。世織はその動きを目で追い、少し遅れて歩幅を戻した。
「世織」
「何?」
「無理に思い出さなくていいよ」
悠澄は前を見たまま言った。
「急がせたいわけじゃないから」
その言葉は優しかった。
優しいからこそ、世織は胸の奥が痛くなった。
大学時代も悠澄は待っていたのだろうか。世織が言葉を選び終えるまで、踏み出すまでずっと。
もしそうなら、間に合わなかったのは悠澄ではない。
自分だった。
「私、そんなに遅かった?」
と、訊くつもりのなかった言葉が口をついた。
悠澄はすぐに答えなかった。
坂の上から聞こえてきた救急車の音が建物の壁に反射しながら近づき、そして遠ざかっていった。その音の余韻が消え去った後、悠澄は静かに口を開いた。
「何に対して?」
「……いろいろ」
「遅かったとは思っていないよ」
「本当に?」
「間に合わなかったとも思っていない」
世織は悠澄を見た。
横顔は穏やかだったが、唇の端には言葉を飲み込んだ後の固さが残っていた。
「だって、今会えたから」
風が強く吹き、街路樹が大きく揺れた。
葉が重なる音が朝の空気を満たし、世織の髪が頬に張りついた。手で払おうとした瞬間、悠澄の指先が先に動いた。
触れる直前で、その手は止まった。
世織も動けなかった。
指先と頬の間には風が通るほどの隙間があったが、そのわずかな距離に何年分もの沈黙が集まったように感じられた。
悠澄は手を下ろした。
「ごめん」
「何が?」
「いや……」
世織は髪を耳にかけた。
触れられなかった場所だけが、かえって熱を持ったようだった。
「昔なら気にしなかったのにね」
世織がそう言うと、悠澄は視線を落とした。
「昔とは違うから」
「何が?」
「いろいろ」
世織が先ほど使った言葉をそのまま返された。
問い返せなかった。
坂道はまだ続いている。朝のうちは終わりが遠いと思っていたのに、分かれ道はすぐそこだった。
「今日もここ?」
悠澄は世織の事務所へ続く角を見た。
「うん」
「そっか」
残念そうに聞こえた。
そのことがうれしくて、世織は少しだけ困った。
「悠澄は毎日、もう少し先まで行くんだね」
「うん。でも、ここまでなら一緒に歩ける」
一緒に歩ける。
その言い方が胸に残った。
未来のことを大げさに語ったわけではない。ただ、明日の朝も続けられるような、小さな範囲について、悠澄は確かめるように言った。
「明日も?」
「世織が嫌じゃなければ」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ、歩こう」
「決めるの、早いね」
「また慎重になられたら困るから」
「私のせいにしないで」
「私のせいにはしていないよ」
悠澄は笑った。
朝の光が頬に触れてその表情を柔らかくほぐし、世織は、その笑顔をじっと見ている自分に気づいて視線を落とした。
「じゃあ、ここで」
「うん」
昨日よりも別れの言葉が自然だった。
けれど、離れやすくなったわけではない。
世織が角を曲がろうとすると、悠澄が名前を呼んだ。
「世織」
振り返ると、悠澄は同じ場所にまだ立っていた。
「ちゃんと何か食べて」
「わかった」
「本当に?」
「わかったってば」
「じゃあ、信じる」
悠澄はようやく坂の続きを歩き始めた。
世織は、その背中を見送ってから事務所に向かう道に入った。昨日とは違い、胸の内に残ったのは、再会したときの驚きではなく、明日も会えるという静かな確信だった。
事務所の扉を開けると、外とは異なる乾いた空気が肌に触れた。
机には素材見本が積まれ、壁際の棚には色の異なる木片や布が並んでいた。窓から差し込む朝の光は、昨日よりも少し高い位置に差し込んでいた。
世織は鞄を置き、椅子に座った。
図面を広げる前に鞄の内側へ手を入れると、昨夜買ったまま忘れていた小さな焼き菓子が包装の中で少し崩れていた。
「ちゃんと何か食べて。
悠澄の声を思い出し、世織は包みを開けた。
口に入れると、バターの甘さが舌の上でゆっくり溶けた。特別おいしいわけではないのに、朝に誰かから心配された後で食べると、味が少し違って感じられた。
世織は苦笑した。
こんな小さなことで、気持ちは簡単に変わる。
仕事に意識を戻すため、昨日修正したラウンジの図面を机に広げた。
窓際の椅子を少し内側に向け、向かい合わなくても同じ景色が見えるようにした。会話を強制しないが、沈黙が孤独を感じさせない距離が欲しかった。
鉛筆を走らせながら、世織は朝の坂道を思い出していた。
悠澄と話すとき、沈黙は気まずくなかった。言葉を探す時間さえ隣にいることの一部になっていた。
大学時代にもそうだった。
作業室でそれぞれ違うことをしていても、悠澄が近くにいると落ち着くことができた。話さなくても、相手の鉛筆が紙を擦る音や椅子を引く気配があればよかった。
恋人ではなかった。
だから失ったのだろうか。
名前をつけなかった関係には、終わったときに引き止める理由がない。友人ならまた会えると言えたし、恋人なら離れたくないと言えた。
そのどちらでもなかったから、何も言えなかった。
世織は鉛筆を止めた。
図面の上に自分の指の影が落ちている。窓から差し込む光は白く、時間の経過を感じさせないほど均一だった。
朝の悠澄の手が頬に触れかけた。
あの一瞬を思い出すと、身体の内側に薄い熱が戻ってきた。触れなかったことに安心したはずなのに、同じくらい残念だった。
昔とは違うから。
悠澄はそう言った。
何が違うのか、答えは聞けなかったが、世織自身も分かっていた。
大学時代なら髪に触れられても笑って済ませただろうが、今はその指先がどこまで近づくのか息を止めて待ってしまう。
外の光が濃さを増すころ、世織は資料を持って事務所を出た。
白金台の通りには昼の熱がこもっており、歩道の上では空気が揺れていた。木々は朝よりも深い緑色をしており、葉の裏からセミの声が絶え間なく聞こえてくる。
打ち合わせ先までは歩いて行ける距離だった。
世織は日陰を選びながら進み、途中にある小さな広場で足を止めた。石の縁に腰を下ろす人も噴水の近くで遊ぶ子どももいなかった。
誰もいない広場は完成前の空間に似ていた。
きれいに整っているのに用途を失っているようで、人がいないだけで場所はこんなにも静かになるのだ。
世織は木陰に立ち、資料の端で顔を扇いだ。
そのとき、鞄の中でスマートフォンが振動した。
画面には見覚えのない番号から短いメッセージが届いていた。
朝、連絡先を聞き忘れた。
その下に悠澄の名前があった。
世織はしばらく画面を見つめた。
どうして自分の番号を知っているのかと思ったが、大学時代から変えていないことを思い出した。悠澄も番号を残していたのだろう。
忘れようとした相手の番号を何年も消さずにいたのだ。
その事実が文字以上の意味を持って胸に響いた。
世織は返信欄を開いた。
何て返せばいいのか迷い、何度も文章を消した。「久しぶり」では朝の会話と重なるし、「よく番号が残っていたね」と書くのも素直すぎる気がした。
結局、短く返した。
「私も聞き忘れてた」。
送信すると、すぐに既読がついた。
忘れていたわけではなくて、言い出すタイミングを逃しただけ。
悠澄から返事が届いた。
世織は画面を見たまま木陰で小さく笑った。
私も。
そう送ると、今度は少し間があった。
「昔と同じだね」。
その文字を読んだ瞬間、世織の指が止まった。
昔も、言い出すタイミングを逃した。
連絡先のことではないとわかった。何についてなのか、聞くこともできた。
けれど、世織は返信欄を閉じた。
今はまだ、文字で確かめたくなかった。
画面越しなら言葉は簡単に届くが、その代わりに、声の揺れも、視線の逃げ方も、息を吸う短い間も分からない。
大切なことほど隣を歩きながら聞きたいと思った。
打ち合わせを終えて外へ出ると、夏の空は薄い雲に覆われていた。
日差しの鋭さは和らぎ、街の上を流れる風には雨の気配ではなく、乾いた涼しさが混じっていた。昼の熱を帯びた建物の壁からは、温められた石の匂いが漂っていた。
事務所に戻る途中、世織のスマートフォンがもう一度震えた。
「今日、帰りは遅くなる?」
世織は足を止めた。
朝の広場とは違い、今度は迷わず返信した。
昨日と同じくらい。
送ってから、何を期待しているのかと、自分へ問いかけた。
悠澄の返事はすぐには届かなかった。
世織はスマートフォンを鞄に戻し、歩き始めた。返事が遅いだけで気持ちが落ち着かなくなるのは少し早すぎる。
それでも、事務所に戻ってからも画面の振動を気にしていた。
図面に線を引きながら、空調の音に混じる小さな振動を聞き分けようとするが、違うと分かるたびに自分の集中力のなさに呆れる。
光が窓の端へ移り、机の上のものが昼とは異なる色を出し始めたころ、ようやく返信が届いた。
「じゃあ、駅まで一緒に帰れる」
短い文章だった。
世織はその文字を何度も読んだ。
待ち合わせの場所も決めていないし、昨日と同じ坂道で会える保証もない。
それでも、会うつもりなのだとわかった。
世織は「うん」とだけ返した。
それ以上書くと、嬉しさが見えすぎてしまう気がした。
仕事を終えたころ、窓の外では雲の縁が淡い橙色に染まっていた。
昼の熱はまだ残っていたが、風は少しずつ軽くなり、木々の影を長く舗道へ引き伸ばしていた。セミの声は朝より低く、遠くの車の音に混じり始めていた。
世織は事務所を出て、坂道へ向かった。
朝に別れた角を過ぎ、悠澄の事務所がある方向へ少しだけ歩いた。待ち合わせ場所を決めていないのだから、いつもの道を進めばいい。
そう思いながらも、歩調は自然と遅くなった。
悠澄を待っていると思われるのが恥ずかしかったが、すれ違う方がもっと嫌だった。
坂の上から吹いた風が日中にたまった熱を押し戻してきた。
世織は街路樹の下で足を止めた。植え込みの葉には夕方の光が薄く残っており、道路を走る車の窓に空の色が流れていく。
少しして、坂の上に悠澄の姿が見えた。
朝とは違う上着を腕にかけ、片手で鞄を持っている。世織を見つけると、その足取りがわずかに速くなった。
その変化に気づいたことを、世織は口にしなかった。
「待った?」
悠澄が近づきながら尋ねた。
「少しだけ」
「ごめん」
「待つって決めてなかったから、謝らなくていいよ」
「でも、待っていたでしょう?」
世織は答えず、駅の方向へ歩き始めた。
悠澄が隣に並んだ。
朝よりも一日の疲れを含んだ呼吸が、すぐ近くで聞こえる。整った顔立ちの奥に、わずかな倦怠感が表れていた。
「疲れてる?」
世織が尋ねると、悠澄は首を横に振った。
「少しだけ」
「疲れてるんじゃない?」
「世織と歩いてるから、今は平気」
「そういうことを自然に言うようになったね」
「昔から言ってたよ」
「言ってない」
「言ってた」
「聞いてない」
「じゃあ、伝わってなかったんだ」
悠澄の声には、寂しさに似たものが混じっていた。
世織は隣を見た。
夕方の光は朝よりも低く差し込み、悠澄の目元に影を落としていた。穏やかな表情の奥に何を隠しているのか、までは見えなかった。
「昔の悠澄はもっと分かりにくかった」
「世織にだけは分かってると思ってた」
「分からなかったよ」
「そっか」
その返事は静かだった。
責める響きがないことがかえって胸に残った。
「ごめん」
世織が謝ると、悠澄は驚いたようにこちらを見た。
「何に謝ってるの?」
「分からないけど」
「分からないなら、謝らなくていいよ」
「でも」
「俺も言わなかったから」
夕暮れの風が肩先のあいだを通り抜けた。
過去の責任を分け合うことに意味はないのかもしれない。それでも、どちらか一方だけが悪いわけではないと分かると、卒業の日の記憶が少しだけ軽くなった。
「今日、連絡をくれて嬉しかった」
世織は前を向いたままそう言った。
悠澄の歩みが一瞬止まりかけたが、すぐに元に戻った。
「俺も、返信が来て嬉しかった」
「来ないと思ってた?」
「少しだけ」
「どうして?」
「卒業してから一度も連絡がなかったから」
世織は唇を閉じた。
自分にも同じことが言える。悠澄から一度も連絡がなかったと思っていたが、悠澄も同じように待っていたのだ。
「番号、残してたんだね」
「消せなかった」
「変わってたらどうするつもりだったの?」
「それなら明日の朝に聞けばよかった」
「最初から聞けばよかったのに」
「世織が困りそうだったから」
「またそれ」
「実際、困ったでしょう?」
世織は答えなかった。
困った。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、困るくらい近づいてきてほしいと思っている自分がいた。
坂道を下るにつれて、駅前の音が近づいてきた。
車の走行音、人の話し声、電車が線路を擦る低い響きが夜へ向かう街の中で混ざり合い、店の扉が開くたびに冷えた空気と食べ物の香りが歩道に漂った。
「何か食べて帰る?」
悠澄が尋ねた。
世織は足を緩めた。
仕事帰りに食事をする。
大学時代なら珍しくもないことだったけれど、今は朝の坂道とは違う場所へ関係を進めるようで、簡単にはうなずけなかった。
「今日?」
「今日」
「急だね」
「嫌なら、また今度でいいよ」
悠澄の声は穏やかだった。
けれど、「今度」という言葉には、もう逃げたくないという思いがにじみ出ているように聞こえた。
「嫌じゃない」
世織は答えた。
「ただ、少し緊張する」
「どうして?」
「昔とは違うから」
朝、悠澄が使った言葉を返した。
悠澄は意味を理解したのか、視線を落として笑わなかった。
「俺も緊張してるよ」
「そう見えない」
「隠してるから」
「失敗を隠すのがうまいんだね」
「世織にはもうバレてるけど」
駅前の明かりが悠澄の横顔を淡く照らした。
世織は小さく笑った。
「今日は帰ろう」
迷った末、そう言った。
悠澄は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐにうなずいた。
「わかった」
「でも、また今度」
世織が続けると、悠澄の目元が緩んだ。
「それは約束?」
「約束」
と言い切ると、不思議なほど胸が落ち着いた。
明日の朝だけではなく、朝の外にも会う時間ができる。そのことが怖くないわけではない。
けれど、怖いからといってまた何年も何も言えないまま離れる方が、今はもっと怖かった。
改札へ続く人の流れが近づいてきた。
悠澄は歩調を落とし、世織もそれに合わせた。別れるまでの距離を少しでも長く保つように、並んだ足音は静かでゆっくりとしたリズムを刻んだ。
「明日も待ってていい?」
悠澄が尋ねた。
世織は顔を上げた。
「今日も待ってたんだ」
「今さら?」
「ちゃんと言ってなかったから」
「待ってたよ」
夕方の街に混じるには少しだけ低い声だった。
「世織が来なかったらどうしようって思いながら」
その言葉が胸の奥に落ちた。
「私も探していた」
世織は答えた。
「朝、坂道の先をずっと見ていた」
悠澄は何も言わなかった。
小さく息を吸い、それから笑った。声にならない、嬉しさだけが先にこぼれるような笑い方だった。
「じゃあ、明日も待ってる」
「うん」
「来て」
「行くよ」
短い言葉が重なった。
それだけで、駅前の騒がしさが遠く感じられた。
改札の手前で、悠澄は世織の手元へ視線を落とした。
左手の親指は人差し指の爪に触れていなかった。
「今日は触らないんだね」
「何を?」
「爪」
世織も自分の手を見た。
「考えてないから」
「本当に?」
「少しは考えてる」
「何を?」
「言わない」
悠澄は困ったように笑った。
「じゃあ、明日まで待つ」
「何でも待てばいいと思ってるでしょう」
「世織のことなら、待てるよ」
胸の内側が熱くなった。
返事をする間もなく、電車の到着を知らせる音が響いた。人の流れが動き、肩先の距離がわずかに開いた。
「また明日」
世織が言った。
「また明日」
悠澄は同じ言葉を返した。
今度は別れの挨拶には聞こえなかった。
世織は改札を抜け、振り返った。
悠澄は、まだそこに立っていた。人の波に遮られながらも、視線だけが世織を追っていた。
世織は小さく手を上げた。
悠澄も同じように手を上げた。
帰宅した部屋には、昼の熱気が残っていた。
窓を開けると、夜風がカーテンを押し上げ、外の音が室内に流れ込んできた。遠くの道路を走る車の音、どこかの部屋から漏れる食器の音、姿の見えない虫の声が暗い空気の中で緩やかに混ざり合っていた。
世織は照明をつけず、窓辺に座った。
向かいの建物にはいくつもの窓明かりが浮かび、白い光、橙色の光、薄いカーテンを透かしてにじむ光がそれぞれ異なる暮らしを夜に映し出していた。
悠澄なら、どの光を選ぶだろう。
目立つ明るさではなく、帰ってきた人の緊張を解す光。世織はその言葉を思い出し、自分の部屋を見回した。
暗い室内に、窓から差し込む街の明かりだけが床に落ちていた。
誰かと暮らすことを想像して設計したことは何度もある。けれど、自分が誰かと同じ場所へ帰ることを長い間考えていなかった。
恋は、始めるものではない。
気づいたときには、すでに日常の中に入り込んでいるものだと思っていた。
毎朝、同じ坂道を歩く。
昨日までは、一人で考え事をする時間だったが、今は、坂の入り口に悠澄が立っているかもしれないと思うだけで、朝の時間が特別なものになっている。
スマートフォンが震えた。
「明日も、ちゃんと食べてきて」
悠澄からだった。
世織は笑いながら返信欄を開いた。
「悠澄もね」
と送信すると、すぐに返事が来た。
「じゃあ、明日は確認し合おう」
何を、と打ちかけて、世織は消した。
朝ごはんを食べたかどうかを確かめるだけの言葉だろう。でも、その先にある毎朝続く何かを、勝手に想像してしまう。
「分かった。
そう返した。
窓から入った風が髪を頬へ運んだ。
それは、朝、悠澄の指先が触れかけた場所だった。
世織はそこへ自分の手を添えた。
触れられなかった感触まで、なぜこんなに残っているのだろう。
答えはまだ見つからなかった。
けれど、答えを急ぐ必要はないと思えた。悠澄は待つと言った。
その言葉に甘えてしまうことが少し怖かった。
同じくらい嬉しかった。
部屋の照明をつけると、窓ガラスに世織の姿が映った。
昨日までと何も変わらないはずなのに、表情だけが少し柔らかく見える。世織は窓を閉めずに夜風が通るままにしておいた。
目黒駅から白金台へ続く坂道にも、今ごろ同じ風が流れている。
明日の朝、そこには待っている人がいる。
世織はその事実を胸の奥にしまい、眠りにつく部屋の静けさに耳を澄ませた。
止まっていた時間は、大きく動いたわけではない。
ただ、昨日より一歩分、近い場所で同じ風を感じられるようになっていた。




