15話(醜聞を広める王女殿下)
王都。
最初の噂は、本当に小さなものだった。
「最近、挿絵作家のアナスタシア様、やたらと出歩いているそうよ」
「絵など描いて、それでなんとか家の体面を保っているらしいわ」
「それって体面を保っているのではなく、汚しているのでは?」
次第に言葉は鋭くなり、尾鰭がついた。
「夫は放置されているらしいわ」
「夫婦仲は仮面だけですって」
噂の中心にいたのは、王女殿下だった。
アランはある程度は覚悟していた。王女殿下が自分に執着していたのを知っていたから。
しかし。
「気にしないでください」
アランの心配をよそにアナスタシアはそう答えた。
「君は強いな」
「そうですか?」
「ああ。強くぶれない」
「私は、ただ私のやるべきことをするだけです」
それはアランも同じだった。
噂は止めようと思って止まるものではない。
今はただ、嵐の過ぎ去るのを待つだけだ。
周囲の醜聞など二人の間に入り込む余地がなかった。
そのうちに教会の絵本は評判を呼んだ。
子供たちのために描かれた優しい物語の挿絵は、王都だけでなく地方にも広まり、孤児院や学校で使われ始めた。
やがて貴族夫人たちの間で、小さな変化が起きる。
「私も裁縫で孤児院を支援してみたいの」
「語学を教えるのはどうかしら」
最初は小さかった声が、次第に堂々とした大きな声に変わっていった。
「女性が働くなんて」
そう言っていた者たちが、いつの間にかこう言うようになった。
「女性だからこそできる仕事があるのね」
そして。
アナスタシアの名前は、単なる挿絵作家ではなく『仕事を持つ女性』の象徴として語られるようになっていた。
この頃にはもう王女殿下の入る隙など全くなかった。
ある夜。
仕事を終えた後の静かな書斎。
窓の外には、優しい月明かり。
アナスタシアは少しだけ躊躇いながら口を開いた。
「旦那様……少し、お話ししてもよろしいですか」
アランはすぐに頷いた。
「もちろんだ」
彼女は緊張しながら尋ねた。
「前に、旦那様が、子供はいらないと仰ったこと聞きました」
アランの表情が止まった。
「ああ……」
「私は、あの時少しだけ、悲しかったんです。今まではそばで旦那様を見ているだけで満足していたのにおかしいですよね」
声が小さくなる。
「だからあの時私は、仕事だけを生き甲斐にするのよ、と自分に言い聞かせました」
アランは彼女のそばに寄った。
「……すまなかった」
それはまっすぐな謝罪だった。
「あの頃の私は、周囲の噂に振り回され、卑屈になっていた。だからあれは本心ではなかった」
アランは彼女の手をそっと包む。
「だが、あれは私の弱さだった。君を傷つけてしまったこと本当にすまなかった」
アナスタシアの目に涙が浮かぶ。
「では、今はどう思っていらっしゃいますか」
アランは迷わなかった。
「君に似た子供が欲しい。これは私の本心だ」
その言葉に、彼女の涙がこぼれた。
彼はそっと抱き寄せる。
月明かりの中で、二人の距離を隔てるものは、もはや何もなかった。




