12話(夫と王女殿下)
それからの日々は目まぐるしく過ぎ、アナスタシア自身、驚くほど早く月日が流れていた。
彼女の最初の仕事は小さな挿絵の依頼からだった。
そのうちに教会関係の書物、子供向けの絵本、そして最近では貴族女性向けの恋愛小説。
そして気づけば、ロッキーニ氏の新作ごとに手掛ける挿絵は、いつしか屋敷全体の生活を賄うには十分すぎるほどの対価を生み出していた。それはもう礼金などではない。立派な報酬だった。
毎日、一枚、また一枚と描くうちに、評判は少しずつ広がっていった。
「この自然な描写、まるで物語が生きているようだ」
「人物の表情が手に取るように思い浮かぶ」
そんな言葉が、編集者たちの間で囁かれるようになった。
ロッキーニ氏の今回の新作が発表されると、反響はさらに大きくなった。
この頃になると、彼女は『挿絵作家』という職業を立派に確立させていた。
しかし、その挿絵を描いたのがアナスタシアだと知る者はまだ少なかった。
ーーーー
屋敷では、夜遅くまで机に向かう私の姿が日常になっていた。
そんな私を、お義姉様はいつも気遣ってくださった。
ある日の午後、完成した原稿をお義姉様に見てもらっていた。
「本当に大したものだわ……でもごめんなさいね」
「どうして謝るのですか?」
「あなたが家計を賄うほど稼いでいるのに、それを弟が知らないなんて、情けなくて」
私は思わず首を振った。
「私は、ただ好きで描いているだけです」
「だとしても、せめて弟とあなたが話し合う時間を作ってあげたいのに情けないのはわたくしの方ね。何もできないのだから」
そう言ってからも、お義姉様は諦めなかった。
何度もアラン様に会おうとし、話をしようとし、そして何度も空振りに終わっていた。
「本当にあの子、タイミングが悪いわ」
ため息交じりの声が響く。
私はその度にお義姉様に言うのです。
「今のままで本当に充分なんです」と。
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そんなある日。
王宮から一通の招待状が届いた。
第二王女殿下の誕生を祝う舞踏会。
封を開いた瞬間、胸が少しだけ重くなる。
「私は遠慮したいです」
そう言うと、お義姉様はきっぱりと言い切るのです。
「だめよ。逃げたら余計に噂が大きくなるわ」
「ですが……」
「あなたは何も悪くないの。堂々としていなさい」
しばらくの沈黙の後、私は諦めて頷くしかなかった。
「……分かりました」
舞踏会当日。
煌びやかな光に包まれた大きな会場。
足を踏み入れた瞬間、胸がわずかに締め付けられた。
王女殿下の隣で微笑む、アラン様。
完璧な所作でエスコートしている。
胸の奥が、段々と冷たくなった。
(大丈夫。気にしないと決めたでしょう)
私はいつものように平静を装った。
だけど、周囲の貴族たちは違った。
「まあ、あれが奥方?」
「目の前で王女殿下をエスコートだなんて」
「お気の毒に……」
哀れみの視線が、否応なく突き刺さる。
それを見たお義姉様が、怒りで顔を染めた。
「ちょっと……抗議してくるわ」
私はそっとお義姉様の袖を掴んでしまった。
「やめてください」
「でも……」
「大丈夫です。本当に」
その時だった。
「これはまた、随分と騒がしい」
低く落ち着いた、だけど聞き慣れている声が響いた。
振り向いた瞬間、会場がざわめいた。
「ロッキーニ氏……!」
誰もが憧れる大作家が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
ロッキーニ先生はサイン会も頻繁に行っているので彼の顔は世間の誰もが知っている。
彼は私の隣に立つと、周囲を見渡した。
「皆様に紹介しよう」
一瞬、空気が止まった、気がした。
「私の作品の挿絵を担当しているのは、このアナスタシア嬢だ」
一瞬の静寂。
そして、次の瞬間。
「え? あの挿絵を?」
「嘘、信じられない……」
ざわめきが一気に変わった。
哀れみは消え、尊敬と驚きの視線に変わっていく。
私は戸惑いながらも、静かに一礼をした。
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その光景を、少し離れた場所から王女殿下が見ていた。
唇をわずかに歪めた。
(面白くないわ)
彼女はアランの腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「あなたの奥方、随分と話題の方なのね」
アランは言葉を失っていた。
知らなかった。
妻が、自分の知らない場所で、これほどの評価を得ていることを。
誇らしさと、戸惑いと、
そしてどこか置いていかれたような感覚。
複雑な表情が、彼の瞳に浮かんでいた。
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そしてざわめきが落ち着きかけた、その時だった。
人垣をかき分けるようにして、一人の貴族男性が近付いてきた。
口元には、あからさまな侮辱の笑みが浮かんでいた。
「ほう、噂の挿絵作家殿か。女のくせに、ずいぶんと稼いでいるようだな」
私の心が早鐘を打つ。
「何だね? 君が家族を養っているのかな?」
くすくすと笑いが聞こえる。
「それとも、ご主人に働かされているのか? 最近は、そういう哀れな話も多いと聞くが」
悪意を隠そうともしない声。
だけど私は、こんな男に負けない。
ゆっくりと顔を上げた。
「いいえ」
会場の視線が、再び私に集まった。
「私は、旦那様から何よりも贅沢なものを頂いております」
「ハァー? 贅沢、だと?」
「はい。学ぶ時間です。好きなことを学び、描き続ける時間。それを許し、支えてくださっていることに、私はどれほど感謝しているかわかりません」
私は男を睨みつけた。
「対価は、ただ後からついてきただけです。私にとって本当に大切なのは、学びながら描けることそのものですから」
先ほどまで笑っていた男は、言葉を失ったように口を閉じた。
その時だった。
「素晴らしい」
一人拍手しながら、ロッキーニ先生が私の隣で賛辞を送ってくれた。
「彼女の言う通りだ。学ぶことを贅沢だと心から感じられる人間は、そう多くない」
彼は、ゆっくりと会場を見渡した。
「さて、この場にそれがわかる方は、どれほどいらっしゃるのだろうね」
何人かの貴族が、気まずそうに視線を逸らした。
「彼女は名声のためでも、金のためでもない。ただ心から好きだから描いている。どれほど努力をして学んできたことか。そしてその努力が彼女の才能と結びついた。だからこそ私は彼女に任せているのだ」
そして、彼はほんの少し笑みを浮かべた。
「そして、それを認め、学ぶ時間を与えているご主人もまた、なかなか大した人物だと思うがね」
冷ややかだった周囲のざわめきが、今は温かな賞賛に変わった。
少し離れた場所では、アラン様がただ黙って立っていた。
その視線は、まっすぐにこちらへ向けられていた。




