10話(子供はいらないと聞かされました)
翌日の朝。
屋敷の食堂には、穏やかな光が差し込んでいた。
テーブルにはすでに美味しそうな料理が並んでいる。
私が席に着くと、お義姉様はすでに食事を終えた後で、お茶をゆっくりと飲んでいた。
(私が来るのを待っていたのかしら?)
「おはよう、アナスタシア」
「おはようございます、お義姉様」
いつも通りの挨拶。だけどお義姉様の表情はどこか考え込んでいるようだった。
「アラン、昨夜も王宮泊まりですって」
「……そうなのですね」
(やはりアラン様はお戻りにはならなかったのね)
「火急の仕事、ね。あの子らしいわ」
そう言いながら、少しだけ呆れたように笑う。しかし、その心の中は心配をしてくれているのがわかる。
しばらく沈黙のまま食事が進んだ。
そして、私の食事が終わるのを見計らったように、お義姉様が真剣な顔で話しかけてくる。
「ねえ、アナスタシア。昨夜はきちんと聞けなかったから、少し話してもいい?」
「はい」
「あなたたち、この先のことちゃんと話しているの?」
胸が、わずかに騒ぐ。
「いえ、お話しする機会がなくって」
そう答えると、お義姉様はため息をついた。
「やっぱりね。あの子、本当に不器用だから、どうせ忙しいふりをしているのね」
少し視線を彷徨わせてから、言葉を続ける。
「前にね、姉弟で話した時があったの。その時、あの子、子供はいらないって言っていたのよ」
心臓が、大きく跳ねた。だけど私は、表情を崩さないように平静を装った。
「そうですか」
声は思ったよりも落ち着いていた。
胸の奥では、じわりと何かが広がっている。
それは昨夜、馬車の中でお義姉様に言われた時に感じた波紋のようだった。
「でもね、それは決して本心ではないと思うの。だからこそきちんと話し合いをすべきなの」
「私たち一度も、ゆっくり話したことさえありません。だからって、そんな時間を私から取って欲しいなんて言えません」
沈黙が落ちる。
扉の外では、使用人が忙しく動きまわる音がしているのに、ここだけが別世界のように静かだった。
(大丈夫)
私はゆっくりと息を吐く。
(もともと、多くは望まないと決めていたもの。そばにいられるだけでいい。それが、私の願いだったはず)
私は顔を上げ、無理して微笑んだ。
「私は、今のままで充分です。多くは望みません」
お義姉様は何か言おうとしたが、やがて優しく私の手に触れた。
「まったく、あなた本当に強いわね」
「いいえ、ただ、不器用なだけです。私はおそばに居て、たまにお顔を見られるだけで充分幸せなんです」
そう答えると、お義姉様は立ち上がった。
「いいえ、このままというわけにはいかないわ。わたくしがなんとかするから少しだけ時間を頂戴」
そう言って、扉を出て行った。
その後、私はいつも通り教会へ向かった。
入口に着くと、中からは、神聖な朝の祈りの声が静かに響いていた。
私は写本室でいつも通りに筆を取る。文字を書き写し、終わると挿絵の構図を考える。
だけど今日はまったく頭に入ってこない。
そして、ふとした瞬間に朝の言葉が胸をよぎる。
(子供はいらない……)
筆先が、ほんのわずかに止まる。私は小さく息を吐き、再び手を動かした。
(思った以上に心が打撃を受けているのがわかる。でも多くを望んではいけない)
自分に言い聞かせた。
やがて休憩の鐘が鳴り、中庭へ出る。
ベンチに腰掛けていると、見慣れた修道士が近づいてきた。
伯爵家の次男で、ここでは数少ない気安い同僚のジョンソン様だ。
「少し、よろしいですか」
「はい」
彼は少し言いにくそうに話し始めた。
「……失礼を承知で伺います。アラン様のことで、最近王宮で噂が出ているのをご存じですか」
胸が、微かに震えた。
「いいえ」
「第二王女殿下と親しい、と……そのような話が広まっているようです」
私は、すっかり馴染んでしまった平静を装った。
「そうですか」
彼は慌てて続ける。
「もちろん、真偽は分かりません。ただ、貴女が心配で。やはり妻が外で毎日仕事をするのは……」
「ありがとうございます」
胸の奥では小さな痛みが、またも波紋のように広がっていく。
それでも。
(そうよ、私はそばにいられるだけでいいと決めたのだから)
「大丈夫です。私は、私の務めを続けるだけです」
そう答えると、彼は済まなそうに頷いた。
「すみません。余計なことだとは思ったのですが、貴女がこのまま仕事を続けることで家庭が壊れてしまうのではと考えてしまいました」
遠くで鐘が鳴る。
私は立ち上がり、彼に一礼をして、再び写本室へ戻る。
(彼は大きな勘違いをしている。アラン様は私が仕事をしていようと、していまいと、そんなことにはまったく興味はないのだから)
第二王女殿下。だからアラン様はいつも王宮に? そんなこと、考えるのはやめよう。
だって私は彼のそばにいられるだけでいいはずでしょう? そんなことを考えながら、それでも、筆を取る手だけは、いつもと同じように自然と動いていた。
(クリスティーヌ・ド・ピザン先生、私は貴女のように仕事に生きます)
この時、私の心は決まった。
『本格的に挿絵作家として生きていこう』




