深雪の城「運命の手、景虎奇譚」
深雪の城「運命の手、景虎奇譚」
「くれぬか。」
姉上、と景虎がいうのを、しんと降りつもる雪に音のせぬなか桐はしばし茫然と眺めやっていた。
弘治二年二月、もとより雪深いこの山城にかぼそく灯る蝋燭の灯にもくっきりと鮮やかに浮き上がる炯々とした黒瞳を輝かせる景虎の姿は、小柄ともいえる体格であるというのに、大きく辺りを薙ぎ払っている。――――
其の膝に生まれてようやく二月になろうかという小さな赤子が抱かれてある。
大きな手に抱いているのは、上田庄を治める長尾政景と景虎の姉である桐の子、卯松である。赤子を手において、景虎は正面から切り付けるような大きく黒い瞳で姉桐姫をみつめている。
「姉上はこの景虎が誓願を立てておるのをしっておろう。」
桐は小さく目を見ひらいた。景虎が誓願を立てていることは勿論しっている。
景虎が毘沙門天に生涯不犯の誓願を立てたことは、既に近隣諸国のものたちにも、しらぬものとてない話となっていた。
それをしればこそ、なおのこと小さくしわぶきひとつも立てられぬ心地に、桐姫は息をころして炯々とあたりを払う景虎の瞳を、ことばもなく見返していた。
「姉上、先の誓願はこの景虎、天地神明にかけて恥じぬものであるのはこの通り。なれば、我が跡継ぎとして姉上の子をこの景虎に貰い受けたいのだ。」
深沈と黒く澄み清冽な光が宿る景虎の瞳に見つめられて、桐姫はことばもなく唯雪のしずかにふりつもるなか、ふりこめられていきそうな、否、既に身動ぎも出来ぬ心地と成り果てていた。
景虎のことばに嘘はあるまい。ゆくゆくは子を持たぬと誓願をした己の跡継ぎとして、卯松を迎えたいという言葉に嘘はあるまい。
けれどそれは、景虎の府内長尾家と、政景が上田長尾家の、一時は戦に踏み込もうとまでしていた来し方を振り返れば、唯跡継ぎにと望まれるだけでない、切ない人質の役割を同時に担う身となろうことは、あきらかでありすぎる。―――
桐姫はことばをえらべぬまま、くちをひらくこともできぬままに、ただ我が弟の黒く清冽とした瞳をみかえしていた。
うかつにくちのひらけぬことだからのみではない。
桐姫自身が政景に嫁ぎ、嫁してのち子にもめぐまれたしあわせの裏側で、いまこの卯松の生まれた祝いに景虎が訪れることが叶うまでとなったこのときと、対してその至るまでにあった目まぐるしいほどの転変をおもい、にわかにくちをひらくことさえできぬようになっていたのだ。
桐姫が政景に嫁したのはいまだその父為景が健在であったとき、―――否、いまおもえば随分と無理をして病の身を誰にもみせることもできずに、唯強く乱世を生き抜こうとしてあがいていたあわれな為景であったことがわかるのだが。
当時は、政略のもと嫁がされた我が身をいとおしむばかりで、見えてはおらぬことがいかに多かったのかとおもう桐姫ではあるのだ。
父から実権を引き継ごうとしていた兄晴景が命で紐帯を強める為にと上田長尾の政景に嫁いだ当時の桐姫には、それからのち辿ることとなった経路を思い描くこともできずにいた。まさかこのようなことになろうとは。
なんと、為景が没したあと、相次ぐ争いが火種を重ね、一時は家督を継いだ晴景はいまは隠棲ののち既にその身を儚くさせた。
そして、いま目の前に座る弟景虎が、兄を追い府内長尾の家督を継いであるのだから。
そうしてその過程で夫政景は桐姫を嫁がせた晴景との同盟を初めは守り、一時はこの景虎と、一触即発の危うい境にまで踏み込んでいたのだ。
この深い山城に、夫政景と共に籠り周辺を既に弟景虎の軍に囲まれた、あのときの何ともいえぬ哀しみは、桐姫の心に深く焼き付いている。
もとより、夫と共にある身に些かの疑いも抱かずに、もしこのまま景虎の軍に攻め滅ぼされたならば、唯仏に後生をいのり命を絶つことに迷いもなかった桐姫だが。
しかし、乱世の習いとはいえ、取り囲む軍が弟のそれであり、夫はその兄に義理立てをして、戦の発端をひらこうとしている。――――
なにゆえ、このようなことが起こるのであろうかと。
ひたすらな哀しみが桐姫の心に深く染みいっていたのだ。……
からくも間を取り持つ宿老達の奔走があり、また晴景自身の己を冒す病へのあきらめが戦端を開こうとしていた政景に戦をとめさせる文を認めさせることともなり、向き合う両雄は、互いに血を流す戦に踏み込むことだけは避け得たのであるが。
晴景は四十の盛り、対する景虎は晴景を追ったときいまだ十九となったばかり。
その年若き弟が何故兄晴景を追ったのか。
病に隠棲してのち数年と経たず儚くなった晴景をみていれば、家督を負った景虎の容赦の無い苛烈な動きは、乱世を生き抜く為には必要なことであったのだと、あとから眺めれば理解することのできる知恵もついてこようが。
当時の桐姫は、唯々恐ろしく年若い景虎の苛烈に駆け抜けていくそのさまを見つめているしかできなかったものだ。
そうして翻弄されていきてきた桐姫の、切ないよろこびは寸前で夫政景と景虎との戦が起こることなく、危ういながらも踏み留められたことではあったが。
なれど、一触即発の矢を交える直前にまで互いに踏み込んだ痕跡は、いまもまだ生々しく両者の間に横たわっている。
こうして同盟を結んだいまとなっても、上田庄を守る家臣達にとっては、景虎はいつ新たに敵となるかもしれぬ相手であることにはかわりはないのだ。
そこに、いかに家督を継がせる為にと言い丈、どうしてそれにとっさにひらくことばをもつことができようか。
黒く輝く景虎の瞳は、そうした姉の心のゆらぎを知り抜いているかのように、静かにだが動かずに桐姫をみかえしている。
一度は収めた鉾をもし互いに交えることともなれば、いっときは跡継ぎとして望まれたかもしれぬ幼い身は、途端に人質と成り替わることになろう。
否、それまでが人質でなかったことにはならないのだが。―――
桐姫は、はっと息をわずかにのんだ。
景虎の黒い瞳がしずかに見据えている。
来し方を憂えても、さらにこれから先の見えぬ先をどのようにおもおうとも。
応えはすでにひとつでしかないのだ。
「かしこまりました。政景が戻り次第、わたくしからようつたえましょう。」
峠の防備を確かめに出た政景が戻るのは今宵。景虎を迎えての宴の席がはじまるまでに政景にこの景虎の申し出を伝えなければ、とおもいかけて。
それはちがう、――すでに景虎がくちにした以上、今宵の宴はその意味を変えることになるのだと、桐姫はことばを切ると侍女を呼んだ。
新たな意味を持つこととなった宴に必要となる支度を侍女に申しつけている桐姫を、その心に辿りおえたおもいをすでに知っているもののように、景虎の瞳には深く落ち着いた輝きが宿り、唯無言で桐姫達の遣り取りを前にある。
幼子はその大きな手に抱かれ、運命の手がかれを運んでいくこともしらずに唯無心で眠りつづけている。―――――




