8 神殿での出来事
神殿の階段に足をかけた瞬間、レティーナの心は少しだけ安らいだ。
女神様に祈れば、沈んだ気持ちも吹っ切れるかもしれない。そんな想いを抱いていた。
そして、もうひとつの目的。女神の笏に星印の力を通す練習を、毎日レプリカの笏を使い部屋でやっているのだが、一度でもいいので、アニエスのように神殿でやってみたかった。
けれど、扉の前に立つ神官は、冷たい視線で彼女を見下ろした。
「申し訳ありません。今は聖女アニエス様が祈りの最中ですので、外部の者の参拝は……」
「王室から許可されている、神殿への外出時間は今しかありません。祈祷室の隅からでかまいません。どうしても女神様に祈りを捧げたいのです。それに、笏に聖印の力を通……」
「……それでもお引き取りを。神域を乱されては困ります」
レティーナの言葉は最後まで言わせてもらえず、神官によってさえぎられた。
そのとき、奥からかすかに笑い声が漏れ聞こえた。
「ねえ聞いた? 偽の印を持つ子が、また来たんですって」
「何度来ても同じなのにね」
「偽物を入れたら、聖なる場が穢れちゃうわね」
「そうでしょう?アニエス様」
「まあ、皆さまったら。そんなにはっきりおっしゃらなくても。うふふ」
レティーナは拳を握り、唇を噛んだ。
怒りでも悲しみでもなく、ただ心が冷えていく。
それでも、気持ちを切り替え神官を見上げた。
「今、アニエス様の声がしましたわ。祈祷は終わっているのではありませんか?」
アニエスの神殿訪問は、ほとんど祈りはせずに笏に力を通す練習もさぼり、お菓子を食べながらおしゃべりしているだけだと、レティーナは知っていた。本人がそれを隠しもしないから。
神官は、レティーナの声が聞こえないふりをして、神殿内部に帰っていった。
(私は、女神様に祈ることすら、できないの?)
黙って踵を返し、階段を降りる。風が裾を揺らし、目頭がかすかに熱を帯びる。
と、そのとき——
「レティーナ様、お待ちください!」
足音と共に、若い神官が駆け寄ってきた。まだ青年のような顔に、明らかな羞恥と困惑が浮かんでいた。
「……本当に申し訳ありません。同じ、女神様に仕えるものとして、彼らの行いが恥ずかしくてたまりません。どうか、お許しを」
彼は頭を下げ、声を落として続ける。
「残念ながら、私はまだ新人で、あなたを神殿にお通しする力はありません。
ですが、王宮の北翼に、あまり知られていない小さな神殿があります。その場所をお教えしましょう。
誰も使っていませんが……毎朝きちんと清めております。あなたが女神に祈りたいのなら、そこをお使いください。王宮内ですから、時間を気にせず、いつでもいけますよ」
「私が……そこを使っても?」
「ええ。とても小さな神殿ですが、女神は、あなたの声に耳を傾けてくださるでしょう」
レティーナは目を潤ませて、神官を見た。
冷えた心に、神官の優しさが嬉しかった。
「お名前を教えていただけますか?」
「ヨハンです」
「ヨハン様に女神様のご加護がありますように」
この日から、毎日この神殿で女神様に祈りを捧げ、その後、笏に力を通す練習をすることが日課となった。