29 悪夢・神官長・王宮使用人
◇神官長の悪夢
目を開けると、神殿の薄暗い廊下に立っていた。だが、すぐに違和感を覚える。全てが異なって見える。
神官長は驚き、身震いしながらその身体を見つめた。自分の手が、レティーナの白く細い手であることに気づいた。
そっと、手の甲を見ると、欠けた星印が刻まれていた。
「私は……レティーナになっているのか?」
周囲を見渡せば、神殿の広間でアニエスが神官長に褒められている。アニエスは無邪気に笑い、その笑顔に神官長はすぐに答えた。
「素晴らしい、アニエス嬢。神の力を受け継ぐ者としてふさわしい。」
「ありがとうございます、神官長様」
その言葉を受けて、神官長である自分はアニエスに微笑んで答えるが、彼の視線はアニエスにだけ注がれ、レティーナに向けられることはなかった。
「お前は、ただのスペアだ。」
「アニエス嬢がいなければ、お前に存在価値などない。」
その冷酷な言葉が、耳に鳴り響く。自分がかつてレティーナに向けた言葉が、今、鏡のように神官長の耳に届く。神官長は震えながら、その無慈悲さを心の底から痛感する。
「ああ……私は……」
アニエスを優先する神官長の冷酷さ、レティーナの心に巣くう絶望と孤独。
無視され、蔑まれ、ただの道具として扱われてきた日々。
彼女がどれだけ絶望的な世界で生きていたのか、心の底から理解した。
「こんなことをしていたのか、私は。きっと、私の所業を女神様もご覧になっていたはずだ」
その瞬間、全ての光景が崩れ去るように、目の前の世界が歪み、目が覚めた。元の自分の姿に戻っていた。
◆
夢から覚めた世界も地獄だった。
あちこちから炎が噴き出し、業火が町を飲み込んでいく。
彼はただ無力で立ち尽くし、破壊された街を見つめる。
「どうして、どうしてこんなことに……」
火の粉が舞い散る中、絶叫する神官長。
「これは、私たちが引き起こした地獄だ……!」
それは、神官長がこれまで見たことのない、恐ろしい光景だった。
◇王宮の使用人の悪夢
目を覚ましたのは、固いベッドの上だった。見覚えのある部屋――だが、そこにいるのは自分ではない。
いや、自分なのだ。
鏡に映るのは、似合わないドレスを着た、少女。寂しい目でこちらを見詰めている。
「私が……レティーナ様になっている?」
使用人たちの誰もが、今、レティーナと同じ経験をしていた。
誰も目を合わせようともしない。どんな理不尽も呑み込むしかない。
それが、彼らが見下していた少女の“現実”だった。
◆
「何をしているの。さっさと通しなさいよ」
アニエスの声が響く。ドレスの裾を揺らし、笑顔でお茶会へ向かう彼女の隣を、使用人が従っていた。
レティーナの姿をした“彼ら”は、部屋の隅で立ち尽くしている。
「あなたの名前は名簿にないわ」
冷たい笑み。見下す目線。
彼らは見覚えがあった。――自分たちが、レティーナに向けてきた態度だ。
(こんな目で……私たちは、レティーナ様を見ていたの?)
(我らはなんということをしていたのだ)
呼ばれることのない名前。
用意されていない椅子。
小さな「無視」の積み重ねが、どれほど深い孤独を生んでいたのだ。
彼らは感じる。
誰も来ない部屋の冷たさ。
話しかけても無視される孤独。
聞こえよがしにされる悪口の痛み。
(……誰か、私に気づいてくれないかな……)
思わずつぶやいた声は、壁に吸い込まれるように消えた。
(レティーナ様は、何度も、こんなふうに……)
◆
そして、彼、彼女たちは目を覚ました。
儀式は失敗し、国は炎に包まれていた。
崩れ落ちる家々。逃げ惑う人々。
阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
儀式を失敗した原因はわかっている。私たちがみんなで聖女を虐めたからだ。




