25 悪夢・エルネスト公爵夫人
儀式会場で気を失った公爵夫人が、目覚めた場所は公爵邸だった。
レティーナにつけていた乳母の顔が見えた。ずいぶん若い。
小さな手。自力で立ち上がれない身体。
「レティーナ様……? どうされました?」
駆け寄って来る乳母の声。
気づいたときには、乳児の頃のレティーナの姿になっていた。
しかし、それ以上に衝撃だったのは――家の中で出会った公爵夫人である“自分”だった。
祝福の儀を受けて神殿から帰ってきた日の“自分”はまるで鬼だった。
「このできそこない! よくも恥をかかせてくれたわね!」
乳児である私はベッドの上に放り投げられた。
大きな音をたてて遠ざかっていく“自分”。
月日がたち、レティーナである私は、7歳くらいになっていた。
母の顔をした“自分”が、妹のリゼを見つめていた。
その瞳は優しく、口元はほころんでいる。
「リゼ、帽子をちゃんと被るのよ。日焼けしちゃうから」
その声を聞いた瞬間、胸がきしんだ。
続けて、レティーナ――つまり、私は――が小さな声で言う。
「私も……一緒に行って、いい?」
振り返った母である“自分”の顔。
それは――鬼のようだった。
眉をひそめ、見下すような目でレティーナを見た。
「……偽物の印があるあなたを、連れていくわけにはいかないでしょう? 恥ずかしいから」
馬鹿にした笑いを浮かべながら言ったそれは、ひどく残酷なものだった。
その瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。
(私って、こんな顔をしていたの? わたしは、こんな目であの子を睨んでいたの?)
足が震えた。
恐怖で身体がすくむ。誰かに否定される、というより、“存在を拒絶される”という感覚。
言葉にならない感情が、喉の奥で詰まって動けなかった。
今日は、レティーナが十一歳を迎えた日。
食堂の空気は、いつも通りだった。
ケーキも、花も、音楽もない。
いつもと同じ料理が並び、父は新聞をめくり、母である“自分”は部屋の温度に文句をつけていた。
弟と妹は、誰からも促されることなく席につき、食事を始める。
誰一人、今日がレティーナの誕生日であることを口にしなかった。
(この日私はレティーナになんて言ったのだろう。お願い、少しは優しい言葉をかけてあげて)
私は祈るように、誰かが口を開くのを待った。
だけど、誰一人、今日がレティーナの誕生日であることを口にしなかった。
レティーナは今まで一度も祝われていなかったから慣れっこのようだ。
レティーナの心の声が聞こえてきた。
『弟にも、妹にも、星印はない。けれど、彼らは誕生日を祝われたわ。
私には“欠けた星印”があるというだけで、誕生日がなかったことにされている。
私を除く家族全員、欠けた星印すら持っていないのに。
欠けた星印より、星がない方が上だということなの?
今日こそ、聞いてみよう』
「……あの」
レティーナは勇気を振り絞って口を開いた。
「今日は、私、聞いてみたいことがあるの……」
「レティーナ、静かにしなさい。食事中でしょう?」
母である“自分”の声は冷たく、そして心底うんざりしていた。
父である夫は新聞をぱさりと閉じた。
「食事の席で、そんな不吉な星印を見せるな。手袋をしろと言っているだろう」
“自分”と夫の言葉に衝撃を受けた。
こんなに傷つく言葉をかけていたとは、まるで気づいていなかった。
また、レティーナの心の悲鳴が聞こえてきた。
『わからない。
どうして、自分だけが、こんなにもいらない子のように扱われるのだろう。
どうして、お父様もお母様も、私を見るたびに怒るのだろう。
私は、ただ生まれてきただけなのに』
(どうして……こんなに、胸が痛いの……?)
また場面が変わる。
「もうすぐ儀式よ。星印があるんだから、役に立ちなさい!」
突然、頬に衝撃が走る。
“自分”の手――平手打ち。怒りと軽蔑のにじむ顔。
痛い。熱い。けれどそれ以上に、心の奥が引き裂かれる。
「こんな使えない子じゃ、国を救えないじゃない……!」
母である“自分”の言葉が胸に突き刺さる。
(私は、こんなことを、あの子に言っていたのね。こんな恐ろしい顔で、こんなことを)
その顔の恐ろしさに、思わず後ずさる。
◇
公爵夫人はこうして17年のレティーナの人生で、自分がかかわった時間を1秒も漏れ落ちることなく、レティーナとして体験し終えた。母である自分がしてきことを、レティーナの目で体験したのだ。
「これはきっと女神さまが私に見せているのね。女神様はこんな私を見て、どう思われていたのかしら」
彼女の額には冷や汗が滲み出ていた。
「これでは私がレティーナに国を救ってくれって言っても無理な話ね。馬鹿なことをしてしまったわ」
公爵家の娘が子爵家の娘に負けたうっぷんを晴らすために、レティーナを虐め罵ってきた。
(女神さまはレティーナを犠牲にしてまで私を救おうとは思わないわね。だって、一瞬も私はあの子に愛情を注いでいなかったもの)
そして、公爵夫人はこの悪夢から目を覚ました。
目が覚めたとき、そこは先ほどの儀式会場の観覧席で、体は自分のものに戻っていた。
けれど心の奥には――レティーナの痛みが残っていた。
視線の冷たさ、平手打ちの感触、言葉の棘。無言の悪意。すべてが焼き付いて離れない。
「あの子に顔向けができない……」
自分が彼女につけた傷は、あまりに深い。
それを今、ようやく理解したのだ。
明日から、12時10分、20時10分の更新になります。