12 アニエス視点
アニエスは謁見の間から部屋に戻ると、閉ざされた扉の向こうで、ようやく張り詰めていた表情を崩した。
誰もいない空間で、そっと胸元に手を当てる。
ドクン、ドクンと、胸を打つ鼓動が耳の奥でうるさく鳴っていた。
(……本当に、私が儀式をしなきゃいけないの? 国を滅亡から守る儀式なんて、そんな大層なことを、私がしなければならないの? それに命懸けなんて、聞いてないわよ……! 星印の力を使ったら命を落としかねないなんて、そんな大事なこと早く言ってよ! レティーナはスペアなのに、なんで代わってくれないの?)
一旦、恐怖を植え付けられた心は、簡単には回復しない。
(違うわ。レティーナだからあんなに体力を消耗したのよ。本物の私だったら大丈夫)
そう思いたかった。けれど、まぶたの裏に焼き付いている。
レティーナは力を使った直後から、しばらく身体がふらついていた。
顔色は悪くなり、今にも膝をつきそうだったあの姿。
たったあれだけで、目の下にはクマが出来ていた。
たった数秒でああなるのよ?
儀式って、どれくらいの時間、力を出すの?
そもそも天から降ってくる炎の矢を防ぐって、そんなことできるの?
(私は……大丈夫だよね……? 私こそが“星印の聖女”のはずだし……。さっきは、スペアのレティーナだから、ああなったんだよね?)
“星印の聖女”という言葉で思い出した。
レティーナが女神の笏を振り上げた瞬間、宙を舞った星屑のような光。
あの輝きは――まさに神の祝福そのものだった。
見た者の胸に迷いなく、聖女の姿を刻みつけるほどに。
(え? 私が“星の聖女”じゃない可能性があるというの?)
アニエスはその考えに行き当たり愕然とした。
脳裏に浮かぶのは、聖女としてちやほやされてきた日々のこと。
女神の選ばれし子として育てられ、どこへ行っても称賛の言葉と敬意のまなざしを浴びてきた。
食卓はいつも豪華に整えられ、衣服は一番美しいものが与えられた。
誰もが彼女を特別扱いした――それが当然であるかのように。
――それがなくなるかもしれない?
(誰も見向きもしなかったレティーナが、まさか、“星印の聖女”だったなんてことはないよね……。皆はあの子が聖女だと、誤解してなければいいんだけど。じゃあ、やっぱり、私が儀式をしてみせないとまずいよね)
あの子はいつも孤独だった。
誰にも話しかけられず、舞踏会にも呼ばれない。お茶会に呼ばれれば席もなく、所在なげに立ったまま。
その姿を、いつもアニエスは見下してきた。
かわいそうに、と憐れんで、けれどどこかで笑っていた。
自分の“完璧さ”を、レティーナを引き合いに出して実感していた。
「……レティーナじゃなくて、私が……本当に、本物なんだよね……?」
自分の手の甲を見つめる。
そこには、女神から授けられた証――完璧な星印が輝いている。
形は均整で、歪みなど一つもない。
その美しさが、彼女に「自分は選ばし存在だ」と信じさせてくれた。
レティーナの星印は、角が欠けている。
(あんなインチキ星印と、私のではわけが違うわ)
その思った瞬間、胸に渦巻いていた不安が、跡形もなく消えていく。
そう、私は選ばれた存在。
力が出なかったのは、あれが練習だからよ。
練習では女神様が降臨されていないものね。
本物の力は本物の儀式でしか発揮されないものなのよ。
「そうよ。私こそが、星の聖女なのだから」
唇の端がゆっくりと持ち上がる。
レティーナなんて、おまけとして連れてこられた子が本物のはずがない。
「皆、見ていなさい。すぐに本当の力を見せてあげる。そうすれば、誰もが、私だけを見るようになるんだから」
瞳に強い光を宿し、アニエスはふわりと立ち上がった。
ちょうどその時、扉の向こうから侍女の声が響いた。
「アニエス様! 誕生日パーティーの準備ができています。もう、皆さまお集まりですよ。グラム子爵ご夫妻も待ちかねています」
「ええ、今行くわ!」
アニエスはいつもの可愛らしい笑顔を浮かべ、鏡の前で髪を整える。
瞳には一片の迷いもない。
完全なる星印を持っているのは私だけ。
女神様に愛されているのは――このアニエスだけなのだから。




