10 聖女確認の儀
王宮は、慌ただしい雰囲気になった。
儀式の日が近づくにつれ、使用人たちの足音はせわしなくなり、侍女たちの話す声には「星印の聖女」「アニエス様」の名がやたらと多く混じるようになった。
──しかし、レティーナという名は、そこになかった。
「レティーナ様、今、神官長はアニエス様と儀式の打ち合わせをされています。レティーナ様との儀式の打ち合わせは、特にありません。お部屋でお過ごしくださいませ」
「……申し訳ございません。こちらの衣装は、アニエス様のもので……」
神官長には無碍にされ、廊下では、誰に話しかけても気づかぬふりをして通り過ぎていく。
もはや無視というより「存在していない」かのようだった。
呼び出されて来てみれば、王妃はアニエスの傍で、新調されたドレスの話に夢中になっている。
「この色が儀式の祭壇に映えるでしょう? アニエス、あなたが主役なのですからね」
国王もまた、儀式の準備会議のたびにこう繰り返していた。
「アニエス嬢の安全を最優先せよ。失敗は許されん。この子こそ、我が国の未来だ」
そこに、レティーナの名が挙がることはなかった。
スペアとしての役目を終えつつある今、まるで、役目を終えた道具のように、
いや、もともと「必要になるはずがなかったもの」──ゴミのように、レティーナは扱われた。
夜、灯りの消えた部屋で、レティーナは静かに布団を握りしめた。
あの日、この場所に来たときは、それなりの覚悟をしていた。
でも――
(こんなふうに、完全に「いないこと」にされるなんて、思わなかった)
完全な星印を持たなかった自分。
呪われた「偽りの聖女」。
それでも何かの力にはなれると、ほんの少し、信じたこともあった。
(儀式が終わればここを立ち去れる)
小さくつぶやいて、レティーナは瞼を閉じた。
(でも、ここを去って公爵家に帰っても、扱いはきっとここと同じ)
どこにも、彼女の居場所はなかった。彼女は表情を引き締めた。
(もう我慢はしないわ。ここを出て好きに生きよう。宝石やドレスを売れば、どうにかなるはず)
◇
星導歴140年12月24日
この日、謁見の間には、厳粛な空気が張り詰めていた。
17歳の誕生日を迎えた二人の娘――アニエスとレティーナが、中央の大理石の床に並び立つ。
そこで初めて、女神の神託の全文が神官長の口から、公開された。
レティーナにとっても、アニエスにとっても、その日国に厄災が起こるとは知らなかったし、儀式がそのように重大なものであるとも知らされていなかった。
それについては集まった貴族たちも同じであった。
動揺する聖女候補と貴族たちを押さえるようにして、国王が言った。
「心配はいらぬ。既に、厄災を払う聖女が見つかっているのだからな」
きっぱりと断言するその声に、それはそうかと、場は一応収まった。
それを見て、神官長が、女神の笏を、厳かに両手で持ち上げた。
その笏には、女神の聖なる秘文が刻まれている。
「この笏に、星印の力を通すことで、本番の儀式は始まります。
今日はその前段階の“聖女確認の儀”を行います。
“儀”といっても、女神の笏に聖印の力を通す経験をするだけです。
緊張せずに、予行練習とでも思ってやってみてください」
神官長は慎重な手つきで、女神の笏をアニエスに差し出した。
「今回は練習と違って本物の笏を使いますので、星印の力が出現します。安全のため、力は最小限に抑えてください」
レプリカの笏に星印の力を通す練習は、今まで幾度もやってきた。だが、本物の笏に触れるのは二人にとって始めてだった。
集まった貴族たちは、期待を込めてアニエスを見つめた。
その中でも、アニエスの両親であるグラム子爵夫妻は顔を火照らせ、興奮を隠しきれていなかった。
誰もが、疑ってなどいなかった。
星の聖女は、彼女に決まっているのだから。
アニエスは、明るく微笑みながら、軽い感じで笏を受け取った。
「はい、がんばります!」
あのいつもの無邪気な笑顔のまま。
しかし、彼女の細い指先が笏に触れしばらく待った。
……何も起こらなかった。
周囲の空気は沈黙し、ざわめきが広がる。
神官長が促すように言う。
「アニエス様、集中を。いつもやっていたように、星印に意識を込めて力を笏に……!」
「はい、もう一度!」
アニエスは笏を両手で握り、目をつぶって力を込める。
だが、沈黙は破られなかった。
笏はただの木の棒のように、冷たく無反応なまま。
「どうして……?」
アニエスの声は、かすれた。
空気が凍りついたその時。
神官長が焦りを隠さず、叫ぶ。
「スペアの出る幕だ。レティーナ!」
レティーナは、乱暴に背中を押され、一歩、前に出た。
心臓が、静かに打つ。
両手を差し出すと、笏は何かに引かれるように彼女の手に収まった。
(私に力があるはずがない。でも……)
手の甲に浮かぶ星印が、わずかに光を帯びた。
そして。
笏の先から、光がほとばしった。
まばゆい星の粒が舞い上がり、夜空を思わせる淡い輝きが謁見の間に満ちた。
人々の頭上で、星屑が緩やかに弧を描き、祝福のように降り注いでゆく。
誰もが息を呑んだ。
口を開けたまま動けない。
「ば、馬鹿な……」
神官長の声はかすれた。
国王は硬直し、玉座の背もたれに凭れたまま、言葉を失っている。
王妃の顔から、血の気が引いていく。
グラム子爵夫妻は卒倒しそうになっていた。
誰もが目を疑っていた。
その光景を否定したかった。
女神が愛する娘は、完全な星印を持つアニエスのはずなのだから。
公爵とその妻――レティーナの両親である彼らは、完全に放心して、我が娘を見つめていた。
「……確かに、これは……真なる星の光……! 美しい……」
誰かの声がそう断じた瞬間、謁見の間の空気が、音を立てて変わった。
あれほど軽んじ、無視し、存在を忘れていた「スペア」が。
誰よりも確かな力を、目の前で示していた。
選ばれなかった少女は、今や誰よりも、神に選ばれていた。