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「いってえ」
ロクオが情けない悲鳴を上げた。談話室の背なしのソファーにだらりとうつぶせに横たわり、さっきからしきりにうめき声をあげている。
「大丈夫かよ」
俺はロクオの近くにスツールを引っ張って着て座り、ロクオの剥き出しの背中を眺めた。
「オニルの野郎。いつか目にもの見せてやる」
ロクオは首だけで俺を見上げながら唸った。熱い怒りのこもった表情だった。
今日の模擬戦で、俺をぼこぼこにした後もロクオは連勝を続けた。班員の全員を相手に勝利を収めた後に、ロクオの前に立ちふさがったのはオニルだった。
「絶好調だな、ロクオ」
オニルはそう言ってあのふてぶてしい笑いを浮かべて、審判棒を脇に置くと試合場に足を踏み入れた。
「最後は俺が相手だ」
「容赦はしませんよ」
ロクオはオニルを油断なく睨みつけたまま、礼をした。
いい機会だった。オニルを殴りつける機会は班員の誰もが待ち望んでいた。それはロクオも同じだったのだろう。合図とともにロクオは勢い込んでオニルに飛び掛かった。飛び掛かりは完璧なタイミングだったし、申し分ない速度だった。ゆるく構えたオニルにはロクオを受け止める準備ができていなかった。少なくとも俺にはそう見えた。
「やれ!」その時ばかりは班員たちの心が一つになったのを感じた。
激しい衝突音がした。俺はオニルの無様な姿を期待して目を凝らした。でも、床の上で仰向けに倒れているのはオニルではなかった。ロクオだった。ロクオは口をパクパクさせながら、呆然と目を見開いていた。
「ふん、こんなもんか」
身体についた埃を払うそぶりをしながら、オニルが欠伸をした。
「今日のところはこれくらいにしといてやる」
オニルはロクオを見下ろした。続いて場外であっけにとられている俺たちを見渡した。
「それとも、せっかくの機会だから俺に挑んでみるか?」
俺たちは一斉に首を振った。あの瞬間はまたしても心を一つにできていたと思う。不本意なことだったが。
「では、今日の訓練は終了とする! 解散!」
「はい!」
オニルは怒鳴り声だけを残して、教官室へと帰っていった。教官室の扉がばたんと閉まるのを見て、俺たちはロクオに駆け寄って担ぎあげると、自分たちの痛めつけられた身体を庇いながらなんとかロクオの小さいくせに重たい体を談話室のソファーの上まで運んできたのだった。
それで、今ロクオはソファの上で呻き続けているのだった。ロクオはしきりに背中の痛みを訴えていた。服をめくりあげて、俺は驚きの声を上げた。ロクオの頑丈そうな背中は痛々しいほど赤く腫れあがっていた。どうやら床にものすごい勢いで叩きつけられたらしい。あの時オニルがロクオに何をしたのかはわからなかったが、何かをした結果がロクオの背中の傷跡なのだろう。
「これ、塗ってやりな」
サルワが談話室に入ってくるなり、俺に小さな瓶を投げて寄こした。
「なんだ、これ」
「うちの秘蔵の塗り薬。打ち身によく効く」
「フライング・エイプの秘薬か」
「まあ、そんなところだよ」
瓶を開けて臭いを嗅ぐ。夏の青葉のような香りが鼻をつく。少し手首に塗ってみる。組み手でロクオにひねられた痛みがかすかに和らいだ、ような気がした。すくなくとも毒ではないようだ。
「塗っていいか?」
「なんでもいいぜ、早くやってくれ、ちょっとでもこの糞みたいな痛みがなくなるならな」
ロクオが声を絞り出す。それで、俺は瓶の中の軟膏をロクオの赤く染まった背中に垂らして、塗り広げた。
「ぐがあああ」
ロクオが唸り声をあげた。
「沁みるか?」
「いや」
尋ねると、ロクオは歯を食いしばりながら首を振った。
「ああ、だいぶ、らくだ」
軟膏を塗り広げるにつれ、ロクオの背中のこわばりは次第にほどけていくのがわかった。
「かなり……らくになってきたぞ、ありがとう」
ロクオがゆっくりと言葉を吐く。荒々しかったロクオの息はゆっくりとしたものになりつつあった。俺は目を見開き、サルワを見た。
「すごいなこれ」
「礼なら父さんに言っておくれ」
サルワはスツールに腰掛けながら、肩を竦めた。
【つづく】




