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俺の身体は宙に浮かんでいた。浮遊感は一瞬で落下の感覚に変わり、それも一瞬だけで途切れ、衝撃が俺の身体を包む。遅れて痛みがやってくる。
「うう」
力ないうめき声が俺の口から漏れるのがひどく遠くに聞こえた。
「そこまで」
オニルが叫ぶ。俺は体を起こそうとする。力が入らない。
「だ、大丈夫?」
くらくらする視界に巨体の影が手を差し出しているのが見えた。
「放っておけ、ライア!」
「え、あ、はい」
「次! ヤカイ、行け!」
こっち、こっちとカシュウの声が聞こえる。俺は這いつくばって声の方に向かう。試合に巻き込まれて踏みつけられでもしたらたまらない。なんとか壁までたどり着き、息を整える。次第に世界の回転が落ち着き始める。
教練場の中央には白いラインが引かれ、その中でヤカイとライアが睨みあっていた。大柄なライアはどっしりと構え、その周りをヤカイの小さな体が動き回っている。ヤカイは油断なくとびかかるそぶりを見せる。ライアは迎撃しようと長い腕を伸ばすが、そのたびにヤカイはさっと身を引いて逃れる。
ヤカイは難なく躱しているように見えるが、その表情には余裕がない。ライアの巨体の繰り出す掴みは、文字通り懐が深い。掴まれたらどうなるかは俺の有様が物語っている。
「ほら、手を出せ! 手を出せ!」
「は、はい」
繰り返される展開に、業を煮やしたオニルがヤジを飛ばす。その声に動揺したようにライアがヤカイに掴みかかった。ライアはウドの大木じゃない。対峙した俺にはよくわかっていた。飛び掛かってくる巨体は素早く逃れがたいのだ。
ライアの手がヤカイに迫る。ヤカイの身体が急速に縮む。ライアの指がヤカイの髪をかすめる。「ぐう」。うめき声をあげたのはライアだった。足元を見る。躱しざまにヤカイがライアの脛を蹴り上げたのだ。
「どうだ!」
ヤカイが声を上げる。
「まだまだ!」
ライアが雄たけびを上げる。逆の手をヤカイに叩きつける。ヤカイはこれも辛うじて躱す。だが、それで終わりではない。振り下ろした腕の勢いを殺さずさらに振り回す。ヤカイはこれもなんとか躱す。ぐらり、とヤカイの身体が揺れる。
「うう」
ヤカイがうめき声を漏らした。額に赤い痕が走る。指先が掠めたのだ。ライアは容赦しなく、肘を振り下ろす。かっとヤカイが目を見開く。
ごん、と鈍い音が教練場に響いた。
絡み合う二人の動きは止まっていた。
「ぐぐう」
ライアが唸った。どさりとライアの巨体が崩れ落ちる。ぐえ、と下敷きになったヤカイが悲鳴を上げた。そこまで、とオニルが怒鳴った。
「なにいまの」
俺の隣で試合を見ていたナリナが首を傾げた。
「ヤカイがカウンターを入れたんだ、と思う、多分」
俺は答えた。自交錯の瞬間にヤカイが腕を突きあげ、拳をライアのみぞおちに入れた、ように見えた。自信はなかった。ほんの一瞬の出来事だった。
「そんなことできるの? 普通の候補生に」
ナリナが小声でささやく。
「さあな」
俺はぐったりと倒れたライアとその下でもがくヤカイを見たまま答える。
「もしかして、あいつが『そう』ってこと?」
ナリナが一層声を潜めて言った。鋭い声。何を仄めかしているのかはわかりすぎるほどにわかる。
「まだ、わかんねえよ」
俺は小さく、首を振る。
擬態型調査は難航していた。組み手で鋭い動きを見せただけで候補生を疑ってしまうほどに。ナリナの殺意を抑えるのに苦労するほどに。
【つづく】




