93
「なんだよ、皆さん。突然黙り込んで。お気になさらず。おつづけになって」
ジジクは談話室に一歩足を踏み入れ、部屋中を見回した。ジジクは笑っていた。見るものをどこか不安定な気持ちにせる顔だった。ヒーローチェスの決着と、カシュウのドーナツボールで浮かれていた談話室の空気は、すっかり静まり返ってしまっていた。
「あれ、ジジク珍しいね。こっち来るなんて」
「たまには皆さんと親睦を深めなくてはと思いましてね」
コチテがいつもの人懐っこい口調でジジクに声をかけた。コチテの顔には歓迎の笑顔が浮かんでいた。けれどもその笑顔はぎこちなくひきつったような笑顔だった。
ジジクは俺たちの班に所属する候補生の一人だった。悪い奴じゃない。少なくとも訓練はまじめにやっているし、与えられた責務を投げ出すこともしない。
「おお、班長殿もいらっしゃるのか。ご多忙なところ、ご苦労様です」
ジジクが慇懃な口調で言った。俺は黙って頷いた。
「ナリナ嬢もおいでになるとは、俺がここに来るよりも珍しいですな」
俺が何かを言う前に、ジジクはナリナに目をやって大げさに感嘆の声を上げた。ぐるり、と部屋を見回して言葉を続ける。
「なんとなんと、班の全員が勢ぞろいするとはなかなか珍しいことではありませんか?」
ジジクは誰に同意を求めるというでもなく言って、首を傾げた。誰も答える者はいなかった。ただ、沈黙があった。
「ああ、そうだねぇ。そうだ、ボールドーナツもらったんだけど、ジジクもいるかい?」
こほんと、咳払いをしてからカシュウが机の上の包み紙を指差した。ジジクは大きく目を見開いた。
「よいのですか? まさか私が来るとは思ってもいなかったでしょうに、誰かが食べられなくなるのではないですか?」
「大丈夫だよ。余分に貰ってきてるから」
「それはよかった。それじゃあ、失礼して」
ジジクはいそいそと机に近づくと、躊躇いなく一番大きなボールドーナツをひょいと摘まみ上げた。カシュウが口を開こうとした。けれどもそれよりも早くジジクはボールドーナツを口に放り込んだ。
「こいつは美味いですなあ」
もぐもぐと口を動かしながら、ジジクはため息を漏らす。カシュウは気まずそうに口を開いた。
「あー、その一番大きいやつは、サルワかハングラにあげるつもりだったんだけど」
「ほほう!」
ジジクが目を見開き、ぺんと額を叩いた。
「これは失礼、私はなんということを! 平に謝りますので、どうかご寛恕を!」
「いや、先に言わなかった俺が悪かったよ」
床に頭をこすりつける勢いで叫ぶジジクに、カシュウが慌てて言った。ジジクはその言葉を聞くや否や、けろりとした顔で尋ね返す。
「あ、さようで。で、お二人にどういった理由で大きなドーナツを譲られるるつもりだったんで」
「いや、二人がヒーローチェスをやるって聞いたんでね、せっかくなら勝った方に上げようと思ってたんだけど、まあいいよ」
「ほほう! ヒーローチェスですか!」
首を振るカシュウの言葉を半ばで遮って、ジジクは素っ頓狂な声を上げて、ちらりと机の上を見た。
「うわあ、これはひどい盤面ですな。よくもまあ……」
「あー、ジジクもヒーローチェスをするのか?」
俺は叫ぶようにジジクの言葉を遮った。視界の端で、サルワとハングラの顔が不機嫌そうに歪んでいるのが見えた。
「まあ、たしなむ程度には」
軽薄な笑いを顔に張り付けたまま、ジジクが答える。
「おやおや、もしや班長殿もヒーローチェスを指されますので?」
「まあ、たしなむ程度には」
俺はジジクの言葉を真似て返した。ジジクは目を大きく見開いて言う。
「それじゃあ、どうです? 一つ手合わせといきませんか? こんな立派陣地盤なんですから、こんなへぼ勝負で一日を終わりにされたら可愛そうだ」
「おい、ジジクよ」
視界の端で背の高い影が立ち上がった。ハングラだった。
「なんかいきなり愉快なこと言ってくれるじゃねえかよ」
「ハングラ」
俺は声をかけた。ハングラは答えなかった。ハングラは落ち着いた表情をしていた。けれどもいつも青白いその顔は今は赤く染まっていたし、こめかみには血管が浮かんでいた。
「おちつけよ」
サルワが立ち上がり、ハングラの肩に手を置いた。ハングラは煩わしそうにその手を振り払った。ハングラはジジクを睨みつけた。
「ああ!」
剣呑な空気に耐え切れず、俺は声を上げた。できるだけ注目を集められれば良いと思いながら。
【つづく】




