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「お、おうナリナ珍しいな」
俺は驚いた顔を作った。突然声を掛けられた動揺を誤魔化そうとしてだが、上手くいった気はしなかった。
実際、ナリナが談話室に姿を現すのは珍しかった。ナリナはいつも訓練の後、夕食を食べると風のように去り、自分の部屋に戻ったきり出てこないことが多かった。
「今日はやけににぎやかだったから」
ナリナは異様な熱気で満たされた談話室を凄まじい顰め面で見回した。
「ここだ!」
ハングラが叫びながら、勢いよく駒を叩きつけた。ギャラリーの間からどよめきが上がる。
「眠っていたのに起きちゃった」
ナリナは目をこすりながらため息をついた。よく見ると線の細いその頬に、シーツの皺の跡がついている。眠っていたというのは本当だろう。
「声抑えるように言っておこうか?」
「いいよ。楽しんでるのに水差したくないから」
言いながらナリナは大きな欠伸をした。その横顔を見て、俺はおやと不思議に思った。眼鏡の奥で細められたナリナの目はやけに鋭く尖っていた。
睡眠を遮られた不機嫌さではないように思えた。それよりももっと激しい感情のようだった。例えば憎しみと呼ばれる感情のように見えた。
俺の口が勝手に動いた。
「ナリナ?」
ん、とナリナは俺を見て首を傾げた。
「何?」
「いや」
言葉は続かなかった。何を言うべきかわからなかった。なぜナリナがそんな目でみんなを睨んでいるのかわからなかった。
だから俺は、「なんでもない」と曖昧に呟いて首を振るくらいしかできなかった。
ナリナは怪訝そうな顔で俺を見た。俺はヒーローチェスの陣地盤を見ているふりをして目をそらした。
サルワとハングラの勝負は一進一退で、泥沼の千日戦争の様相を呈し始めていた。ギャラリーはうんざりしながらも二人の消耗戦を眺め続けていた。
「ナリナはヒーローチェスできるのか?」
ナリナとの間に漂う沈黙に耐え切れず、俺は口を開いた。ナリナはなにも答えなかった。俺は口を開いたことを後悔した。とんでもなく馬鹿なことを聞いてしまった気がした。ナリナの視線がさらに鋭くなって側頭部に突き刺さった。
「リュウト班長」
ナリナが俺を名を呼んだ。びくり、と背筋に電撃が走った。顔を上げられなかった。ナリナの声はひどく圧力に満ちていた。耳元に体温を感じた。ナリナだった。耳元で押さえた声がささやく。
「ちょっと話があるんだけど」
「なんだよ」
俺も声を押さえて聞き返した。ナリナは何も答えない。目線だけ動かしてナリナを見た。眼鏡越しの目が俺の顔をじっと見ていた。鋭く、強く、真剣な目だった。
タン、と駒が盤に叩きつけられる音が響いた。サルワのうめき声とギャラリーの歓声が聞こえた。
【つづく】




