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事務所のエレベーターの中で、俺はミイヤの顔がやけに強張っているのに気がついた。その時は無理もないと思った。事務所でのあの事件はMr.ウーンズの大ファンであるミイヤには相当のショックだっただろう。
だから俺はミイヤの肩をつよ目に叩いて言った。
「大丈夫だよ。すぐに治るさ。あのくらい」
「うん」
生返事が返って来た。
俺はできるだけ軽い口調を作って続けた。
「マンマゴット、お前も知ってるだろ? 活劇じゃあもっと酷い怪我をしたヒーローも次の週には治ってただろ。全部マンマゴットが治したんだぜ」
ヒーロー名鑑の記事を思い出しながら俺は言った。毎年新しい名鑑が出るたびに、俺とミイヤはわざわざ物理書籍を買いに出かけた。ミイヤの部屋にある名鑑は擦り切れるほど読み込まれていた。
俺が言うまでもなく、ミイヤはマンマゴットのことを知っているはずだった。
「ああ、そうだな」
でも、返ってきたのはやっぱり気の入らない生返事だった。
その時になって初めてミイヤの目がフーカの背中に釘付けになっているのに気がついた。俺は首を傾げた。
「おい、ミイヤ?」
「あの、フーカさん!」
だしぬけにミイヤが叫んだ。ひどく上ずった、素っ頓狂な声だった。
「なに」
フーカが振り返った。さっきの激しい怒りがまるで嘘だったかのように、いつもと変わらない冷徹で平坦な口調だった。
ミイヤが俺の隣でゴクリと唾を飲み込んだ。
「もしよければ、この後少し話さない?」
「話?」
フーカの眉が訝しげにぴょこんと持ち上がった。
ミイヤが慌てて付け加える。
「あの、じゃなくて、もし嫌じゃなかったらなんだけど」
「まあ、こんな所で会ったんだ。折角だしちょっとどうだ」
俺は援護射撃をしてみた。ミイヤの意図は分からなかった。フーカがそんな誘いにのるとは思えなかった。それでもミイヤの顔はやけに真剣だったのだ。
「ふむ」
フーカは俺たちを見て小さく唸ってから扉の方へ向き直った。俺はフーカの背中を見ながら!酷いヘマをした気分になった。隣でミイヤも気まずそうに目を伏せた。
俺はエレベーターの表示を見つめた。来る時と同じ速度のはずなのに、なんだかやけに遅いように感じられた。
永遠のような沈黙の時間が流れ、ようやく扉が開いた。
「それで、どこに行くの?」
一歩、エレベーターから出て、フーカは振り向いた。
「え」
ミイヤが間抜けな声を上げた。俺は何とかこらえた。
「まさか道端で話し込むわけにもいかないでしょ」
「あー、うんそうだよね」
ミイヤの目が宙を彷徨い、助けを求めるように俺を見た。
俺もどうすればいいかなんて分からなかった。まさかここにきてミイヤがノープランだとは思わなかった。フーカの目がミイヤの目線を追い、俺の方を向く。
二人に見つめられて、俺は目を逸らしたくなった。でもそういうわけにもいかなくて、俺の頭は今までないくらい激しく回転した。
それで出てきたのが
「降池堂」
という言葉だった。フーカはわずかに首を傾げた。
「降池堂って知ってるか? あの学校の裏の、駄菓子屋の」
「ああ、あの……歴史がありそうなところね。そういえば行ったことなかったわね」
「もしよければそこに行ってみないか?」
「悪くないわね」
フーカはすました顔で頷いた。俺はミイヤをひじで小突きながら、胸を撫で下ろした。
◆◆◆
それで、そういうわけで俺たちは降池堂の前に設置されたベンチに並んで座っていた。
横目でフーカの様子を窺うと、複雑な表情でドクペを一口ずつ舐めるように啜っていた。俺の視線に気づきたのか、フーカは言った。
「不思議な味ね」
「ああ、うん」
ミイヤが曖昧な音を漏らした。
「悪くはないだろ?」
「嫌いじゃあないわ」
フーカは大きめに一口飲んで、一つしゃっくりをした。それから誤魔化すように咳払いをしてからミイヤに尋ねた
「それで? 何の話があるのかしら」
「ああ、えっと、それは」
ミイヤが口の中で言葉をモゴモゴさせながら俺を見た。今度は助け舟を出すことはできなかった。ミイヤが何を言いたいのか、俺には分からなかったからだ。それで肩をすくめて首を振ってみせた。
ミイヤはまたしばらくモゴモゴしてから、ドクペを一口飲み、ようやく口を開いた。
「フーカさん……もヒーローになりたいんだね」
「そうよ悪いかしら」
「いや、なんか意外だったから」
斬りつけるようなフーカの口調に、ミイヤは慌てた様子で首を振った。
「そうだ。Mr.ウーンズがあそこにいるの知ってたの? 僕らは知らなかったから、すごくびっくりしちゃって」
「何度か相談に乗ってもらってたから」
「え、すごい知り合いだったんだ」
ミイヤが目を見開いた。俺は嫌な予感がした。
さっきのMr.ウーンズとギルマニア星人のやり取りが頭に浮かぶ。それからフーカの激昂も。ミイヤはMr.ウーンズのことになると周りが見えなくなる。
「どこで知り合ったの」
止める言葉は間に合わなかった。
フーカは「うん」とだけ短く唸って、手元のドクペを見つめた。缶の表面に浮かんだ水滴を指先が撫でる。
さすがのミイヤも言葉を切った。あー、と曖昧な音を漏らしながら黙り込む。
気まずい沈黙が流れた。俺は一つ咳払いをした。
「こいつ、Mr.ウーンズの大ファンすぎてよ。Mr.ウーンズのことになると周りが見えなくなるんだ」
「別に」
フーカは短く言った。再び短い沈黙。
今回の沈黙を破ったのはフーカだった。フーカはぎこちなく笑って言った。
「確かにさっきは大分周り見えてなかったね」
「え?」
突然のフーカの言葉にミイヤは首を傾げた。
「机投げたの」
ミイヤの顔が赤くなった。
「それは、でもフーカさんも椅子を投げてたじゃん」
「当たらなかったけどね」
「先にやったのはフーカさんじゃん」
「それはそう」
二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。俺は呆れた気持ちで二人を見つめて、思わず口を挟んだ。
「でも、危なかったぜ!二人とも。あいつらに目をつけられてたら殺されてたかもしれないぜ」
「ヒーローになるんだもんあのくらいできないと」
フーカはあっけらかんと言った。
俺は肩を竦めた。
「死んじまったら、ヒーローにはなれねえよ」
憎まれ口が零れ出た。口に出した瞬間にしまった、と思った。また嫌な予感がした。言うべきでないことだった、と思った。
「なれるよ」
すっ、とフーカの目に冷たい色が差した。
【つづく】