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ごとん。鈍い音がした。ナリナの斧が床に転がる。ナリナは斧から離した手で、口元を押さえていた。その手の隙間から、とめどなく笑い声がこぼれだす。
「どうしたの?」
コチテが心配そうな顔で尋ねた。ナリナは口を押さえたまま、あふれ出る笑いの隙間に言葉を繋ぐ。
「ずいぶんと、かわいらしいこと、と思って」
「かわいい? なにが?」
ナリナの言葉は随分と奇妙で、俺は思わず聞き返していた。ナリナがちらりと俺の顔を見た。眼鏡の向こうの目が細められ、くすくすと漏れる笑いがさらに強くなった。斧を持つのがあまりにきつすぎて、調子を崩してしまったのだろうか。
「あの人の言うことを、あなたたちは、そのように理解したのですね」
ナリナの目は扉を見た。その向こうに姿を消したオニルの背中を見るように。
「違うっていうのかい、ナリナ」
ロクオが尋ねた。その口調は穏やかだった。頑丈そうな顔面には微笑みが浮かび、できるだけ威圧感を消そうとする努力が見えた。ナリナはロクオの努力を気にする様子を見せずに答える。
「ええ、だって、あの人はずっと同じことを言っているじゃないですか。ヒーローになるとはどういうことか、と。私たちはそれがわかっていないのだと。だから、罰を与えるのだと。その通りじゃないですか。私たちは、わかっていないじゃないですか。ヒーローになるということを」
「ふむ」
ロクオが唸った。その口角が不快さを堪えきれない様子で、くにゃりと歪む。
「しかしね、それは結局方便なんじゃないかと、俺は思うんだがね」
「方便!」
ナリナの笑いが止まる。ひどく意外な言葉を耳にしたように、目を見開く。ロクオは眉を寄せて言葉を続ける。
「だから、別にヒーローがどうの、っていうのは言いがかりでしかなくてさ、俺たちを痛めつけて自分を偉く見せようとしているだけじゃ」
「ええ、そうですね。そうかもしれませんね。でも、それがなんだというのですか」
高らかなナリナの声がロクオの言葉を遮った。今度はロクオが目を見開いた。苛立たし気に口が閉じて、開く。
「なんだもなにも、それだけだよ。あいつは威張り散らしてるだけのつまんない奴だよ」
「ロクオさん、あなたはそれで本当にヒーローになるつもりなんですか?」
「そのつもりだよ」
ロクオは息を吐き、穏やかに答える。ナリナは再びくすりと笑い「お可愛いこと」と呟いた。ロクオの掲げていた斧の刃先がふらりと揺れる。
「なにかおかしいかい?」
ナリナがにこりと笑う。物置の薄暗い明りの中で、分厚い眼鏡がぎらりと輝く。
「ええ、おかしいですよ。だって、ヒーローですよ。ヒーロー。あの程度の屈辱だとか、苦しさがなんだっていうんですか。本当にヒーローになるのなら、あんなの、なんでもないでしょう。そうでないなら、ヒーローになんかなれないでしょう」
「まるで、あの鬼教官サマみたいなことを言うじゃないか」
「だから、オニル教官はあんなことをしたのでしょう」
「まさか」
ロクオははき捨てるように言った。
「あいつがそんなタマかよ。あいつはただのたちの悪いサディストさ。俺たちをいびって悦に入ってるだけさ」
「あー」
突然、コチテが声を発した。何かを言い返そうとしていたナリナとナリナを睨みつけていたロクオは、調子を外された顔でコチテを見た。コチテは二人の怪訝な目線を無視して言った。
「ちなみにさ、じゃあ、リュウトはどう思う?」
突然の問い掛けられる。俺は面食らった。どう思う? 正直に言えば、二人の話はなんだか遠くのことを話していたように思えた。俺にはオニルはヒーローの体現者には見えなかったし、意地の悪い加虐者にも見えなかった。同時に両方にも見えた。演技をしているようにも思えたし、あれが本性のようにも思えた。それがどちらなのかはわからなかった。でも、確かなことは一つだけあった。
「俺にわかるのは、あいつの言葉に従った方がいいってことだけだよ」
そう言って、俺は斧を掲げなおした。疲弊した腕に斧の重みがのしかかる。
オニルがいなくなってもう随分とたっていた。そろそろ帰ってきてもおかしくはない。その時に斧を下ろしてしゃべっているのが見つかったらかなり大変なことになるだろう。
「あー、それはそうだ」
コチテは笑って、自分の斧を掲げなおした。ナリナとロクオはしばらく睨みあったあとに、斧を持ち直した。
「くおら! なにをくっちゃべっとるか!」
その時、扉が勢い良く開き、怒鳴り声が響いた。
【つづく】




