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どん、と鈍い音がして、オニルのブーツのつま先がナリナの腹に突き刺さった。
「ぐえ!」
ナリナが低いうめき声をあげた。オニルはしゃがみこみ、ナリナの髪を掴んで顔を覗き込んだ。
「まだ、ヒーローになりたいか?」
「……は、い」
ナリナが弱々しい声をあげる。
「そうか」
オニルはナリナの髪を掴んだまま、少し持ち上げて、勢いよく振り下ろした。
俺は思わず目をつむった。ナリナの痛みがこちらに伝わってくるような気がした。だが、予測していたナリナの顔と眼鏡が地面と衝突する音は聞こえなかった。ゆっくりと目を開ける。ナリナの顔は地面すれすれで止まっていた。
「冗談だよ、お嬢さん」
オニルは不気味な笑顔を浮かべて言った。ポンと仰向けになるようにナリナを放り投げると、立ち上がりひざのほこりを払った。
「さ、坊ちゃんもそろそろ起きな」
そう言って地面の上で伸びたままのサルワを蹴とばした。サルワは「ううん」とうめき声をあげ、ふらふらと体を起こす。
「列に戻れ!」
オニルが叫ぶ。サルワとナリナがよろよろと立ち上がり、列に戻った。
「どうだ、お前たち。理不尽だと思うか?」
オニルが全員に向かって問いかける。誰も答えなかった。下手なことを言うと、次に地面に転がるのは自分かもしれない。そう思うと、俺は何も言えなかった。おそらく他のみんなも同じ考えなのだろう。オニルに注目しながらも、みんな時折ちらちらとサルワとナリナに視線を送っている。二人ともふらふらとしながら、なとか直立を保っている。
「ふん」
オニルが大きく鼻を鳴らした。
「今回の候補生さんはおりこうさんばっかりのようだな! まあ、その方が長生きできるだろうさ!」
オニルがはき捨てるように言った。かなり純度の高い軽蔑のこもった声だった。
「いいか、お前たち。お前たちがヒーローになってから出くわす理不尽に比べたらな、こんなことはどこまでも優しいことだからな」
オニルの透き通った緑の目が俺たちを見渡す。
「お前たちはこれからもっと酷くみじめで理不尽なことに出くわす。しかもその時になっ
て全部放り投げて逃げ出したいと思っても、そんなことは出来やしないんだ。だから、もう一度言う。ヒーローになるのをやめるなら今のうちだぞ」
そこまで言ってオニルは言葉を切った。そしてじっと俺たちを見つめた。奇妙なことにオニルは俺たち全員を見ているはずなのに、俺はオニルとしっかりと目線を合わせているような気がした。それは他のみんなも同じだったのかもしれない。
誰も、何も言わなかった。
「まあいい、予備訓練は長い。その間に諦めるなら諦めろ」
オニルが言った。そうなることを心の底から望んでいる言葉のように聞こえた。
その言葉に従ってやろうか。俺の頭に一瞬、そんな考えがよぎった。ここで何も言わずにオニルに背を向け、教練場の外に歩き出したらどうなるだろう。案外その方が良いのではないだろうか。自分のためにも、オニルのためにも、ヒーロー連盟のためにも。
けれども、脚は動かなかった。このまま素直に振り返るのは癪だった。それだけだ。
他に振り返るやつもいなかった。今のところは。
「ふうむ」
オニルがわざとらしく唸った。
「お前たちの覚悟はよくわかった」
そこまで言ってにこりと笑ってから、オニルは「はっ!」と鼻をならした。
「とでも言うと思ったか? お花畑どもめ! 今日はお前たちの後悔の最初の日だ! 全員駆け足!」
だしぬけに、オニルは大きな声で叫んだ。列の中の数人が走り出し、別の数人が慌ててそれに続いた。
「何をぼんやりしている! 一番のノロマには立っていることを後悔するような罰をくれてやるぞ!」
オニルが事態を呑み込めずにいる訓練生に怒鳴りつける。
「行こう、リュウト」
コチテがささやく。俺はそれで我に返って走り出した。無我夢中で、足を動かす。オニルの言う「罰」がどんなものかはわからないけれども、ろくでもないものなのは確かだった。
どさり。
その時背後で何か柔らかいものが地面に倒れる音が聞こえた。
【つづく】




