33
降池堂の壁のへこみは数か月たった今でも、目隠しのプラ素材が貼り付けられているだけで、修理の手は入っていなかった。埃だらけの扉に貼られた「本日休業」の看板もずっとはがされることなく、扉と同じように埃をかぶりつつあった。
俺は軒先に放置されているベンチの残骸にもたれかかりながら、ミイヤからの手紙を広げた。数週間おきにミイヤから手紙が届くたび、ここで手紙を広げるのがすっかり習慣になっていた。ここなら、少しの間だけ課題の山のことを考えずにいられるから。それだけ。別にセンチメンタルな理由がある訳じゃない。
今日の手紙には訓練が厳しいけれども、なんとかやっていると書いてあった。いつもとあまり変わらない。悪いことが起きてないということはいいことだ。
俺は返事になんて書くか考えながら、手紙を封筒にしまった。
とりあえず、上級技術学校のことは書こう。課題の量はどんどん多くなっていったし、実習の内容もかなり難しいものになってきていた。でも、その分実際に手を動かして何かを作る機会も増えてきて、勉強学んだ理論が実践と結びつくようになってきた。そうすると課題にも気合が入るというもので、課題をやる速度は少しずつ上がっていった。まあ、それを上回る速度で課題の量は増えていくのだけれども。
なので、父さん……あるいは親方の下での修行もたくさんの時間を掛けられるというわけではなかった。けれども、その短い時間はとても密度の濃い時間だった。親方の作業を隣で見て、端材で機材を実際に試してみて。最新の機材は繊細で扱いづらく、最初は上手く扱えなかった。でも、親方は辛抱強く、丁寧に教えてくれた。それで、俺はほんの少しだけ機材を使えるようになった。
それは学校の勉強のずっと先にある技術ばかりで、でも、確かに今の勉強から続いた先にあるものばかりだった。
「んでも、んなこと書くわけにはいかねえか」
俺は誰に言うともなく呟いた。まあ、それなりにぼやかして書けばいいだろう。文面を考えながら、立ち上がる。日が暮れて街灯が青白い光を放ち始める。そろそろ家に帰らなければならない。
「あっれー」
その時、ふいに声が聞こえた。聞いたことのある声だった。俺は眉をひそめた。その声の主がこんなところにいるはずがなかった。
「コチテ? どうしたんだ」
「いやいや、それはこっちの台詞だけど」
街灯の光の下にたたずみ、端正な顔を傾けているのはコチテだった。
「ここは、俺らのたまり場……だったんだよ」
答える言葉は一瞬よどんで、過去形になった。コチテは、降池堂の看板を見て、ああと頷いた。
「そういえば、あったね、こんなお店。よく来てたんだ」
「まあな」
降池堂は学校の裏、少し入り組んだ所にある。コチテも店の存在は知っていたかもしれないが、ここに来たことはないはずだ。コチテの所属するグループはもっとにぎやかなところにたむろしていた。
だから、こんなところにコチテが姿を現すのはかなり不思議だった。
「や、散歩してたら迷い込んじゃってね」
「そうか」
怪訝な顔をしてしまっていたのか、コチテは肩を竦めながら言った。
「ちょっと、学校の方を歩いたりなんかしてたんだよ」
きょろきょろと珍しそうにあたりを見渡しながらコチテが近づいてくる。
「今はやってないんだ」
コチテは扉にかかった看板を見て言った。
「ああ、店の人の体調が悪いらしくてな」
「そうなんだ」
コチテは短く頷いた。どうやら本当に特に理由なくここに来たようだった。
「ヒーローになるんじゃなかったのか?」
俺は尋ねてみた。たしかこの前会ったとき、コチテはそう言っていたはずだ。あの時に手続きを済ませたのだとしたら、今はもう訓練所に行っていてもおかしくない。
「あー、そうなんだけどさぁ」
コチテは暗い店の中を覗き込みながら、頭を掻いた。
「なんか、試験が通んなくてさ」
【つづく】




