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俺はジジクと向かい合い、その軽薄な笑みを睨みつけた。腕を伸ばせばと獄距離にいるはずのジジクは、けれども理解できないほど遠くにいるように感じられた。
「あの日……ヤカイがいなくなった日に、俺はハングラとヒーローチェスをしていたんだ」
「そうですか」
静かな声で、ジジクが答えた。俺は慎重に言葉を続ける。
「その時には鍵なんかなかったぜ」
小さな間があった。ジジクはにこりと唇を歪め、肩をすくめた。
「じゃあ、そのあとにヤカイが置いたんでしょうね。どこかに行く前に」
「それはないな」
俺は首を振り、ジジクの言葉を否定した。ヤカイが俺を怪訝そうに見た。俺は答える。
「あの夜、ヤカイはある奴と喧嘩をして、医務室に運ばれたんだ」
さらに言葉を重ねる。
「鍵を置く暇も理由も、そんなものはなかった」
ジジクの言葉が止まった。大仰な体の動きも、微笑みさえも。軽薄な笑みは温度を失い、凍り付いた。俺は問いかけた。
「お前、あの鍵をどこで手に入れたんだ?」
ジジクは答えない。俺はさらに問いを重ねる。静かに感情を載せない声で。
「俺があの鍵を受け取っていたら、どうしていたんだ?」
ジジクは身じろぎもせず、俺の言葉を聞いていた。その顔に浮かんだままの笑みは、もう感情の見えない分厚い仮面ではなかった。薄っぺらなその表情の向こう側からなにかおぞましいものがにじみ出ているように感じられた。それが何なのか俺には判別できなかった。ただ冷酷で邪悪な感情だけが透けて見えていた。
「何が目的だ」
鋭く問いを投げつける。
俺の心の中に恐怖はなかった。ひどく意外なことに。怒りも。ただ目の前の邪悪に対処することだけを考えていた。
ふいにジジクが目をそらした。
「どうなっていたと思いますか?」
ジジクが微笑みの形に歪めた口から返してきたのは、俺への問いかけだった。俺はジジクの横顔を睨んだまま尋ねる。
「なにがだ?」
「ですから、あなたがあの時、あの鍵を使っていたら、ですよ」
くすり、とジジクの口から笑い声が漏れた。
「俺は使わなかった」
硬い声で俺は答える。
「ええ、そうですな」
ジジクは首を振り、答えた。その声にはひどく残念そうな感情が滲んでいた。
「あなたは、高潔でした」
「あ?」
ジジクの言葉に引っかかる。『あなた』という言葉がやけに強調された言葉だった。
「まさか、他の奴にも同じようなことを?」
「全員が全員受け取ったわけじゃありませんが」
ジジクが肩をすくめて言った。
「何故、そんなことをした?」
俺は問いかけた。声とともに吐き出された息は、鈍い怒りの熱をまとっていた。
【つづく】




