184
俺は静まり返った廊下を歩きながら、隣のジジクをそっと窺った。ジジクはまるで騒動なんて何もなかったかのようなすました顔で俺の隣を歩いている。後ろを歩くナリナの落ち込んでいるような、安堵しているような、複雑な表情とはまるで反対だった。
「なにか?」
俺の視線に気が付いたのかジジクは首を傾げた。俺は首を振りかけて、やめた。このまま寝室でベッドに入って眠りにつくには、胸の中で渦巻く疑念はあまりにも深い色をしていた。
頭の中でいくつかの問いを転がしてみてから、そのうちの一つを拾い上げる。俺はジジクの顔を横目で見たまま、口を開き、抑えた声で問いかけた。
「お前は、何者なんだ?」
「曖昧な質問ですな。私の名前はジジクですが」
澄ました回答に俺はため息をついた。
「からかうのはやめろ。だから、お前は……」
俺は薄目でジジクのすまし顔を睨み、追及をつづけた。
「なんであんな所にいた?」
それが疑念の中心だった。今晩の騒動に偶然居合わせたと考えるには、ジジクの登場はあまりにもタイミングが良かった。
「さっきも言ったでしょう? 談話室で訓練期間を懐かしんでいたんですよ」
「からかうのはやめろと言っている」
目つきを鋭くしてジジクを睨む。さらに声を潜めてジジクに顔を寄せて尋ねた。
「お前、本当に訓練生か?」
それはとくに根拠のないカマかけだった。でも、ジジクの振る舞いや、オニルとのやり取り、それにオニルたちが『試験』に際して行ってきたえげつない程の策謀を考えれば、無視できない可能性だった。
「どう思いますか?」
ジジクはなおもいたずらっぽく微笑んだ。抑え込んでいた暴力的な衝動が蘇りそうになる。俺は深く息を吐いて、胸に湧き上がりかけた熱を散らした。
「かなり疑わしく思っているよ」
「信用されていないのは悲しいことですね」
ジジクの顔が露骨に曇る。わざとらしいほどに大げさな表情だった。もう一度ため息。
「わかったよ」
俺は前に向き直る。
「言いたくないのか、言うべきでないのかはわからんが、言うつもりはないってことだな」
「まあ、そうですね」
視界の端でジジクは肩をすくめるのが見えた。ジジクの顔の軽薄な笑顔は、仮面のように真意を覆いかくしていた。これ以上の追及は無意味に思えた。
黙り込んだまま廊下を歩く。寝室が近づいてくる。寝室の扉は閉まっていて、もちろん何の音も聞こえない。俺は小さく肩越しにナリナのほうを振りむく。ナリナは何か考え事でもしているのか、黙ってついてきている。
仕方がないか、と思う。ジジクの正体が何であったところで、今日でお別れなのだ。追及して正体を暴いたところで、俺に何かの利益があるというわけでもない。そう考えると、胸の中で渦巻いていた疑念も気にならなくなってくる。少なくとも眠気によって思考の隅に押しやられる程度には。
一度意識すると眠気が存在感を主張するようになってくる。思わずあくびがこぼれる。ベッドが恋しくなってくる。寝る前に眺めていた名鑑を私物箱に戻さないといけないな、などとのんきなことが頭をよぎる。
私物箱? 何気なく頭に浮かべた言葉が引っかかった。もう一度あくび。目をこする振りをしてジジクの様子を窺う。すまし顔。眠そうな様子さえ見えない。問いが頭に浮かんでくる。前を向いたまま、小さな声で隣のジジクに問いかける。
「私物箱の中身が消えたのは、お前の仕業か?」
ぴくり、とジジクの顔が強張った。俺にはそのように見えた。
【つづく】




