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絞り出されたナリナの声は小さく震えていた。震えを押しつぶすようにナリナは強い声で続けた。
「十人を殺して、それ以上の危険がなくなるなら、十分だ」
暗闇の中でナリナの目が危うく光る。その目に宿る感情を俺は解析しかねていた。一目見ただけでは怒りに見えた。あるいは恐怖に。それとももっと別の感情か、それらが全て混ざり合ったような感情だった。
その目は遠くを見ていた。ここでも、今でもないどこか遠くを。
「トウド・フロッグの大奇跡のことか?」
びくり、とナリナの肩が揺れた。俺が口にしたのは血塗られた事件の名だった。かつてあった街で起きた事件。ギルマニア星人による大虐殺。ナリナが全てを失った悲劇。
「同じような事が起きると、思っているのか」
俺の問いに、ナリナの影は硬く強張った。
ナリナは何も答えなかった。でも、聞く必要なんてなかった。ナリナの目は遠くの地の惨劇を見ていた。
「大丈夫さ」
俺は笑顔を作って言った。
「だって、訓練所なんだぜ」
言葉をつづける。
「ヒーローだってたくさんいるんだぜ。ギルマニア星人が正体を表したら、次の瞬間には対峙されているさ」
自分の引きつった笑顔は、笑顔と言えるほど柔らかなものになっていないのはわかっていた。それでも言葉をつづける。
「感知能力の強いヒーローもたくさんいるしな。もしも擬態型が紛れ込んでいたら、すぐに見つけてくれるさ。ほら、知ってるだろ? セブンスアイとか耳男とか。あのへんなら曲者見つけ出すのなんて、一瞬だぜ、一瞬」
俺は名鑑で見た感知系のヒーローの名を口にした。ナリナが知っているかどうかはわからなかった。感知系のヒーローは戦闘職のヒーローよりも認知度が低い。それでも軽い口調を作って、余裕がある振りをして俺は話し続けた。
ナリナの錯乱は危うい境界上にあった。その最後の一滴を一瞬でも遠ざけるように俺は引きつった、笑顔とも言えないような笑顔を浮かべていた。
な、と声をかけ、さらに一歩ナリナに近づく。心臓がうるさい。俺はそれを無視する。遠くを見ていたナリナの目が不意に俺を見た。
「そう上手くいくものかよ」
ナリナは言った。地の底から聞こえてくるような低い声だった。
「なんだよ」
滲む震えを抑え、何とか声をひねり出す。ナリナは俺の言葉を無視して続けた。
「お前はあいつらの狡猾さを知らない。あいつらは……」
その時になって俺はナリナの目に浮かんでいた、奇妙な感情の正体に思い至った。それは深い憎悪だった。
「あいつらは一瞬の隙をついて全てを破壊する。ヒーローだって例外じゃない。だから」
ナリナの腕がゆっくりと動くのが見えた。
「だから、そこをどけ」
滑らかに銃身が宙を滑った。無慈悲にぎらつく銃口が俺のほうにまっすぐに向いた。俺の身体は氷漬けにでもされたみたいに固まった。
「やめろ」
「邪魔をするなら、班長、あんたから排除する」
ナリナの細い指先が引き金に触れた。
――やめろ
俺はもう一度叫ぼうとした。でも言葉は喉に張り付いて出てこなかった。
「おやおやおや、何をしてらっしゃるのですかな?」
不意に背後から声が聞こえた。
【つづく】