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俺にはスナッチャーの言葉の意味がわからなかった。すくなくとも、その時すぐには。
だから俺は聞き返そうとした。スナッチャーの言葉はなにか大切な意味を持っているように思えた。でも俺が口を開こうとしたその瞬間に廊下の天井に据え付けられたスピーカーから耳障りなブザーが鳴った。就寝前点呼を知らせるブザーだった。
「おや、もう行かないとまずいんじゃないか?」
「ええ、そうですね」
俺は一瞬ためらった。ここに残り、話の続きを聞いた方がいいんじゃないかと思った。オニルにどやされて、予備訓練所での最後の一晩を倉庫で過ごすことになったとしても聞いておくべきじゃないかと思った。
「ほら、行きな」
「ええ」
でも、続きを促す言葉は出て来なかった。何を聞くべきか……どのように聞けばこの得体のしれない勧誘係から話を聞け出せるかわからなかった。そもそも自分が何を知りたいのかさえわからないのだから。
「またね」
スナッチャーが俺の肩を叩いた。談話室でわっと歓声が上がるのが聞こえた。盛り上がっているらしい。早く行って整列させないといけない。俺はスナッチャーに会釈をした。
「また、どこかで話を」
「喜んで」
スナッチャーは笑って答えた。俺はもう一度会釈をして、暗い廊下を駆けだした。スナッチャーが立ち止まって俺を見送っている視線を感じた。
◆
談話室のどんちゃん騒ぎはなんとかオニルが怒鳴りこんでくる前に鎮めることができた。かなり危ないところだった。コチテの実力行使がなければ、俺たちは班員全員で仲良く倉庫で懲罰斧を掲げて、最後の夜を過ごすことになっていただろう。
そんな不愉快な結末だけはなんとか回避して、俺はベッドの中で暗闇を見つめていた。
今までの夜となにも変わらない寝息といびきと歯ぎしりだけが聞こえてくる。本訓練はどのような場所で行われるのだろうか、と思う。ここと同じように共同の寝室で眠ることになるのだろうか。それとももう少し人数の少ない部屋が割り当てられるのだろうか。まさか個室ということはないだろう。
この聞きなれた騒々しさとはお別れだ、と思う。別に感慨は浮かばなかったが。班は解体されるのだろうか。なにもわからない。班員たちはこの先の訓練で脱落することなくヒーローになれるのだろうか。そうであればよいと思う。皆、ヒーローになりたがっているのは本当だったから。
そのヒーローたちの一団の中に、自分がいることを想像する。どんなヒーローネームなのだろう。名鑑に載るだろうか。どのようなページに? もちろん、報奨金のランキングに載るのが一番だが。そうすれば父さんの借金を返済することができるだろう。
あるいは誰か他のヒーロー……例えばミイヤあたりと組んでコンビヒーローの特集に載るのも悪くない。ミイヤは間違いなくヒーローになるだろうし、あいつと組んだら気分良く活動することもできそうだ。
コンビはどのような手順を踏めば組むことができるのだろう? わからない。今度スナッチャーに会うことがあったら聞いてみようか。
ぎしり、と音が聞こえた。
高揚とまどろみがもたらしていたとりとめのない思考が一瞬で霧散した。ベッドの軋む音だった。誰かが寝返りをうったか? 俺は聴覚に意識を傾けた。いびき、寝息、歯ぎしり、いつもの音の中に、もう一度ぎしりと音が聞こえた。寝返りではない。誰かがベッドから身体を起こす音だった。
俺は静かに首だけを持ち上げて暗闇に目を凝らした。
【つづく】