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「ほら、立てる?」
スナッチャーが手を差し伸べた。俺はおとなしくその手を取った。小さなその手は見た目からは想像できないくらい強い力で俺の身体を引き起こした。その力の強さは、俺に目の前の軽薄な女性が元ヒーローであることを思い出させた。
「前を見て歩かないと危ないよ」
「ええ、気を付けます」
厳しい顔を作って言うスナッチャーに、俺は頷く。
「本訓練に移る前にケガなんかしたら大変だろ」
「はい」
俺は目をそらし、答えた。スナッチャーの言葉は俺をいたわる言葉で、自分がケガしていたかもしれないなんて欠片も考えていなそうな口調だった。それはそうだ、と思考がよぎる。元ヒーローにケガをさせるなんて、そんなことできるはずがない。俺にそんなフィジカルはない。
「どうした?」
スナッチャーが首を傾げて、一歩近づき俺の顔を下から覗き込んできた。
「何か悩んでるの?」
覗き込んでくるその目は、あの俺の頭の中を覗き込んでくるような目つきだった。俺の考えていることや、考えていないことまで見透かすような。
「別に」
俺は目をそらした。スナッチャーはふうん、と唸った。
「知らない仲じゃないし、相談に乗ってあげてもいいんだけど」
「だから、別に悩んではいませんって」
「なら、ちゃんと前を見て歩かなきゃ」
スナッチャーの絡みつくような目線をまだ俺は横顔に感じ続けていた。その大きな目は俺の表情をすべて読み取ろうとしているようだった。下からのぞき込んできているはずのスナッチャーの小柄な身体は、なぜだかやけに大きく感じられた。まるで上からのしかかられているようなプレッシャーを感じる。
ため息。
「そんな悩んでるわけじゃないんですけど」
俺は口を開いた。この元ヒーロー相手に隠し事をするのは無理だと悟る。それならむしろ自分の口で説明したほうがましだ。でも、何を話せばいいんだ?
「俺、ヒーローになれるんですかね?」
何を話せばいいかわからず、開いた口から出た言葉は、自分でも驚くくらいに力のない声だった。
スナッチャーの目がさらに大きく見開かれる。
「なれるんじゃない? だってリュウト君、予備訓練は終わったんでしょう?」
「ええ、なんとか。でも……」
俺はゆっくりと首を振る。頭に浮かんでいるのは曖昧な考えだけ。けれどもスナッチャーの目を見ていると、その曖昧な考えがゆっくりと言葉の形を作り始めるように感じられた。形をとった言葉がゆっくりと俺の口からあふれ始める。
「俺はとてもヒーローになれるなんて思えないんですよ。活劇の中のヒーローにも、本物のヒーローにも、俺は全然つながっていないように思えるんです」
「そりゃあ、君はまだ本格的な訓練も処置もしていないんだからしょうがないさ」
スナッチャーは言う。俺は首を振る。
「そうじゃないんです。能力じゃない。そりゃあ、能力は足りない。でも、それだけじゃないんです」
「じゃあ、なんなんだい?」
問われて俺は口ごもる。スナッチャーはそれ以上言葉を重ねず黙って俺を見つめた。考えて、考えて、俺は言葉を口にする。
「俺はヒーローに向いてないんじゃないかって思うんです」
「そうかい?」
首を傾げ、スナッチャーは言った。
【つづく】