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「大丈夫かい?」
穏やかな声に振り返る。そこに立っていたのは所長のテイチャだった。テイチャは穏やかな、それでいてどこか面白がるような表情で俺を見上げている。
「所長、どうしたんですか」
なんとか言葉を絞り出した。俺の心臓は弾けそうなほどに弾んでいた。
「どうしたとは、ご挨拶だな。私だってこうして夜の見回りをしたりもするんだよ」
「ああ、そうなんですか?」
「君みたいに抜け出す不届き者がいたりするからね」
少しおどけた調子でテイチャは大げさに厳しい顔を作った。
「いや、違うんです。俺は、そのちょっとトイレに行こうと思って」
「そうだろうとも」
テイチャはそう言って鼻を鳴らした。俺の言葉を信じている様子はなかった。その目つきは笑ってはいるけれども、俺を無罪放免にするつもりも無さそうだった。俺は一つ息を呑んでから、口を開いた。
「その……俺以外に寝室を抜け出した奴……がいるようなんです」
「ほう、それは誰だい?」
「それは……言えません」
俺は床を睨んでいった。
「私は所長だよ」
有無を言わせぬ口調でテイチャは言った。ごまかすことはできそうになかった。
「コチテと、ヤカイです」
「ほう」
興味深そうにテイチャは唸る。
「乱暴者になったコチテ君と、失踪していたヤカイ君か」
「ご存じなのですか?」
「私は所長だよ」
テイチャは言葉を繰り返す。俺はその言葉に興味を惹かれて質問を投げかけた。
「二人のことで何かご存じではないですか?」
テイチャは首をかしげる。
「何かとは、なんだい?」
「その、コチテが力持ちになった経緯であるとか、ヤカイが何故いなくなったのかについてです」
テイチャは言葉通りに、多くのことを知っているように思えた。俺が知っていることも、知らないことも全部。けれども、テイチャは首を振った。
「それについては私は何も知らないね」
「そうですか」
テイチャはやはり有無を言わさぬ口調で言った。俺は食い下がろうと口を開いた。
「それよりも、いいのかい?」
けれども俺の言葉はテイチャに遮られた。
「なにがですか?」
「コチテ君とヤカイ君のことだよ。追いかけないでいいのかい?」
「いいのですか?」
「君は班長だろう」
奇妙なことを聞かれた、とでもいうようにテイチャは首を傾げた。かしいだ眼が俺を見つめる。
「だったら、班員の面倒ごとを防ぐのも君の役目だろう」
「はい」
俺は頷いた。ふい、とテイチャの縛り付けるような目線がゆるんだ気がした。
「ああ、そういえば」
テイチャの口が開いた。
「さっき談話室に人影が入り込むのを見たな」
そう言ってテイチャは意味ありげに片目をつむった。俺はもう一度頷く。
「ありがとうございます」
「あまり騒ぐなよ」
テイチャの言葉を背に、俺は歩き出していた。談話室に向かってまっすぐに、静かに、音もなく。