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音をたてないように細心の注意を払いながら、俺はベッドの縁に手をかけた。なんのつもりだ? 便所か? そうかもしれない。たとえヒーローになったとしても便所には行く。当たり前だ。ヤカイだってそうだ。だがそうだとしても……。
俺の胸がざわついた。それにしてはやけに気配を消しているように思えた。考えすぎか? 他のやつらを起こさない程度の気づかいはするだろう。寝静まった寝室でどたどたと音を立てる奴はいない。胸のざわつきを抑えようと、俺の思考は右に行き、左へ行く。
考えを振り払い、静かに手に力を籠める。後を追おう。決意する。もしも本当に便所に行っただけだったとしても、上手くすれば会話をする機会くらいあるだろう。そうすれば明日、どこかで事情を聴取する約束を取り付けられるかもしれない。
半ば言い訳めいたことを考えながら、身体の重心を移し、立ち上がろうとする。
その時、再びぎしりと床が鳴った。
帰ってきたのか? 寝室の入口に目をやる。違う。音は部屋の中から聞こえた。別の誰かが起き上がったのだ。誰だ。闇になれた目が人影をとらえる。背は高くなく、低すぎもしない。俺より少し低いくらいか。身をかがめ、静かに歩き、寝室の外へ。あの歩き方は見覚えがある。
コチテだ。
人影は戸口のところで一度立ち止まり、寝室の様子をうかがうように振り返った。俺は寝返りを打った振りをして、起き上がりかけていた上体をベッドに横たえた。
動きを止めた気配があった。驚かしてしまったのだろうか。唸り声を一つ。そのまま動きを止める。自分は眠っているのだと、自分に言い聞かせる。荒くなりかける息を意識して抑える。長い静寂。俺はコチテに向けた背中に全神経を集中させて、動きの気配を探った。
再び足音が聞こえた。コチテが動き出す。俺は動かずに待つ。足音が遠のくのを。足音が聞こえなくなって、しばらくしても俺は動くのを我慢した。ただ便所に行っただけかもしれない。偶然同じタイミングで。遺恨のある二人が。
足音は戻ってこない。どちらの足音も聞こえてこない。俺は今度こそ静かにベッドから滑り出た。
かくれんぼ訓練の時よりも静かに、気配を殺してベッドとベッドの間を抜けてゆく。息をひそめ、抜き足差し足で。寝息といびき、ときおり誰かが寝返りをうつ音だけが聞こえる。他の誰かに気づかれるつもりはなかった。静かに、迅速に廊下を目指す。
二人はどこへ? 夜の訓練予備校の宿舎に、行ける場所の選択肢はそれほど多くない。トイレか、談話室か、どこかの階段か。宿舎の外への扉は施錠されている。数少ない選択肢を頭に思い浮かべる。探さないといけない。それもできるだけ急いで。
二人が出会い、致命的なことが起きる前に。何が起きるかはわからないが、ひどいことが起きる予感だけがしていた。
【つづく】